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25,000年前、闇の勢力は地球を隔離状態にして、人類を人質にしました。

25,000年前、闇の勢力は地球を隔離状態にして、人類を人質にしました。彼らは仮想現実のコントロールシステムを創り、誰も逃げられないようにしました。彼らは、ソースと繋がっている光の存在たちを閉じ込めて、この仮想現実を創造し続けてきたのです。
この仮想現実のコントロールシステムはまだある程度機能しており、普通はマトリックスと呼ばれているものです。物質界において、そのコントロールは、オリオン―バビロニアタイプの負債に基づいた金融奴隷制度、マスメディア、マインドプログラミングを通して維持されています。エーテル界、アストラル界、メンタル界では、電磁的時空歪曲チェンバーで維持されており、フィラデルフィア実験でも類似したものが使われました。これらのチェンバーは、永久不滅に見えるような閉ループ系の幻想を創り出しています。このため、自由になった人、解放された人、エンライトメントした人が、これまでほとんどいなかったのです。
そのマトリックスは、アルコン(ギリシャ語の支配者)と呼ばれている存在たちに運営されています。彼らは、アンドロメダ銀河からやって来て、闇を経験することを選んだ存在です。彼らはソースと再び結びつくことを拒否しました。数千年間、彼らは遺伝子工学を用いてドラコニアンとレプタリアンを創り出し、自分たちの闇の帝国を広げるために、奴隷戦士として利用しました。
惑星地球は、解放されるべき、この闇の帝国の最後の惑星です。アルコンは地球上にほんの僅かしか残っていません。
エーテル界とアストラル界では、アルコンらはカルマの主として知られています。彼らが、転生後の人生経路の大部分を決める者たちです。彼らが私たちの両親を選び、ある程度人生の境遇を決定づけます。このプログラミングシステムは、カルマとして知られています。彼らはアストラル界で高度な波形生成テクノロジーを使って、アストラルの地球エネルギーの流れを操り、そのエネルギーを占星術的な悪影響を及ぼすために用いています。彼らは歪曲された時空構造をインプラントで維持しています。インプラントは時空のブラックホール異常を生じさせ、人間のマインドと感情を混乱させます。インプラントはプログラム可能なクリスタルで、強力な電子装置を用いることで、地上のすべての人のメンタル体、アストラル体、エーテル体に埋め込まれています。
(訳注:現在のインプラントはブラックホールよりも弱い「裸の特異点」になっています)
エーテル界及び低層のアストラル界では、ドラコニアンの管理人らが、マトリックスを構築し続けている人工知能技術を維持しています。それは警告システムです。もしも目覚めた存在が、自分の光でそのマトリックスに穴を開けると、ドラコニアンはレプタリアンの奴隷戦士を送り、その目覚めた存在の心理的弱点に圧力を加え、その存在の波動を低下させます。こうして穴は閉じられるのです。また、レプタリアン奴隷戦士たちも、転生した人間のマインドと感情に絶えず圧力をかけて、スピリチュアルな成長を妨げたり、自由への闘争心を抑圧したりします。それでも十分でない場合、彼らはアメーバのようなエレメンタル存在を送り、さらに圧力をかけます。それらのすべてのネガティブ存在は、通常、アストラル界及びエーテル界の、歪曲時空構造のひだの中に隠れています。
彼らの力は恐怖の中に、そして隠された意図の中にあります。彼らは、光、真実と勇気に直面するとすべての力を失います。もし私たちが恐怖心なしにこのすべてを知っていれば、私たちの意識の光が、時空構造のそれらのひだを真っ直ぐにし、そのようなネガティブ存在は、惑星地球のアストラル界及びエーテル界からすべて排除されるでしょう。
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「こだわり人物伝 小津安二郎特集(全4回)。題して「小津安二郎は落語だ!」

だから小津さんは偉い!
現在教育テレビで放送されている「こだわり人物伝」は小津安二郎特集(全4回)。題して「小津安二郎は落語だ!」。

この黒澤明や成瀬巳喜男と並ぶ日本が世界に誇る名監督については、これまでも散々論じられてきたし、研究・評論本の類も多いわけですが、落語の文脈で小津映画の魅力を紐解いていこうという今回の切り口はなかなか新鮮で楽しめます(語り手も若手の落語家さん)。「小津は落語で、黒澤は講談だ」。なるほど。

極端なローアングルや徹底したバストショットなど、小津調と呼ばれるその特徴は挙げたらきりがないほどで、それが小津作品を論ずる動機にもつながっているわけですが、その小津調のひとつに、あの徹底して感情を抑えたセリフの棒読みがあります。前回(第2回)の放送では、その理由を「感情をあえて表に出さないことによって、観る者に自由に想像させる」というような説明を加えていました。

いやいや、それは違うでしょ。結果的にそうなったかもしませんが、小津安二郎という映画監督をなめてはいけません。凡百の監督ならなだしも、小津さんはそんなことこれぽっちも考えていないはずだからです。小津さんは何も考えていない。小津映画は、そのような映画の教科書の上ではまったく意味のない――つまりそうしたからといって傑作になるという根拠など何もない――ただしたいからそうするという、いわば監督の「クセ」の集積です。

わたしの個人的な見解としては、小津さんは映画をひとつの音楽のようにとらえていて(これは先の番組でも指摘されていました)、役者の発する言葉の一つ一つを、意味のある表現と言うよりも、楽譜の音符のようにとらえていたのではないか。極端な話、映画の最初から最後まで、登場人物はすべて同じ一定のテンポで言葉を発しているのではないか。もしそうであれば、役者が勝手にアドリブでしゃべったり、感情を込めたりすることは、小津の作った楽曲を勝手に編曲してしまうことになりかねない。

繰り返し言うように、こんなことをしたからといって、映画が傑作になる理由はどこにもありません。しかし、最初のカットから最後のカットまで、監督の掲げた無数の掟によって映画が厳格に律せられるとき、そこにはそれまで、そして今日まで誰も成し遂げたことのない映像のマジックが生まれたのです。

闇の者たち(裁き)

これまで人類を導き、宗教を作ってきた者たちのほとんどは、人格的障害者と言ってよいような者ばかりでした。人々は彼らの肉体的・表面的なレベルの見せ掛けの徳の高さにだまされ、誤った教えについて疑問をもつことがなかったのです。これらの輩は、過去に犯した多くの過ちによって、幽体もしくは原因体がすでに人間の形を取れなくなってしまった者たちも多かったのです。この者たちの中には苦行・瞑想の努力によって、解脱に至る者まであらわれましたが、心を浄化することはなく、三昧(サマディー)からもどると、カルマ(業)で汚れた幽体・原因体による苦から逃れることは出来なかったのです。

すなわち身体意識を離れた三昧(サマディー)でだけ、苦から逃れることが出来たのです。それは、彼らが心を浄化することを怠り、瞑想により、解脱のみを求めたことと無縁ではありません。解脱は、肉体への生まれかわりからの離脱を可能にしますが、心を清めないかぎり苦から逃れる術はありません。ところが愚かにも、この者たちは解脱を得た者は完全に清らかであり、もはやいかなる罪も解脱者には影を落とすことすら有り得ないという信じがたい妄想に取り付かれたのです。要するに解脱者は、神をも越える完全な者であり、何をしても実は何もしていないのと同様で、いかなる罪悪も解脱者には無縁であると本気で思うほど愚かでした。この愚かさが、さらなるカルマを彼らが生み出す元となり、現実に身体がすべて滅び去る、いわゆる彼らの目標とする究極の解脱こそが、真の意味で救いとなってしまったのです。

彼らは、身体を不浄とし、自己(アートマン)のみを真実としたために、かえって身体、そして心を浄化することを軽んじてしまったのです。心の浄化を軽んじ、解脱のみが目標となれば、性欲は大敵となります。実に性を正しく導くことこそが、心を浄化するただひとつの方法であるにもかかわらずです。
これらの愚か者たちは宗教を創始し、人々に性が罪悪であることを植え付けました。彼ら自身が性を否定することで自らの心の浄化を否定したのみならず、人類にいわば暗黙に強制したのです。性を否定すれば野心が育ちます。
彼らの全員が、暴力的で権力欲の塊のような者たちであったのは、このためです。

宗教は地球をメチャメチャにしてしまいました。宗教で教えることは性の否定・禁欲であるか、または神殿での売春かのいずれかになってしまいました。神殿売春を神聖なことであると教える悪霊か、完全な禁欲が人生の究極の目標に不可欠であると教えるハイアラーキーかのいずれかを人類は選ばなければならなくなってしまったのです。そしてこのどちらもが誤りなのです。真の幸福は性の成熟と不可分に結びついています。夫婦の愛こそが、すべての愛の基本なのです。宗教は真理を、くだらない神話と教義で覆い隠してしまいました。

(竹下 雅敏)

脚本家 橋本忍さん死去 「羅生門」「七人の侍」手がける

脚本家 橋本忍さん死去 「羅生門」「七人の侍」手がける
2018年7月20日 6時50分

戦後の日本映画を代表する脚本家で、「羅生門」や「七人の侍」など数々の名作を手がけた橋本忍さんが亡くなりました。100歳でした。

橋本忍さんは大正7年、兵庫県に生まれ、肺結核にかかって闘病生活を送る中、映画のシナリオに興味を持ち、伊丹万作監督のもとで映画の脚本を学びました。

デビュー作は黒澤明監督と共同で執筆した「羅生門」で、昭和25年に公開されたあと翌年のベネチア国際映画祭で日本映画としては初めて最優秀賞の金獅子賞を受賞しました。

その後も、海外の映画祭で賞を受賞した「生きる」や「七人の侍」など数々の黒沢作品の脚本を手がけ、脚本家としての地位を確立していきました。

また、「砂の器」など作家・松本清張さんの作品の映画化や、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」、森谷司郎監督の「日本沈没」「八甲田山」など映画史に残る作品を手がけ、日本映画の黄金期を築きました。

一方、映画監督としても活躍し、自身が脚本も手がけた昭和34年の「私は貝になりたい」は無実の罪で戦犯に仕立てられた善良な散髪屋の半生を描き、大きな反響を呼びました。

平成3年には勲四等旭日小綬章を受章し、平成12年にはシナリオなどの資料を集めた橋本忍記念館が、出身地の兵庫県市川町に開館しました。

橋本さんは90歳をすぎてからも現役の脚本家として活躍し、平成24年ごろ脳梗塞を発症したあと、自宅で療養を続けていましたが、関係者によりますと、肺炎のため19日東京都内の自宅で亡くなりました。

本のイノベーション(技術革新)を考える

本のイノベーション(技術革新)を考える
ひさびさのブログです。

facebookでもいいかな〜と思ったのですが、ちょっと長くなりそうだったのでブログに書き留めて起きます。
僕は山中湖情報創造館という図書館機能を有する施設の指定管理者館長をしています。さぞや「本が好き」な人なのだろう…と、思われがちですが、実は…本は嫌いではないが、手放しで好きなわけでもない。というのが本当のところです。昨今「電子書籍」といった新しいカタチの本があるから、それはイノベーション(技術革新)だろう〜と言われる人もいらっしゃいますので、まずは「電子書籍」について


○ 電子書籍は本のイノベーションではないのか?

 ひとつの見方でいえば、電子書籍端末やスマートフォンやタブレット、そしてパソコンを使って読む電子書籍は、技術革新だと思います。ただ、正直なところ「紙の本の模造品」的な電子書籍なのです。かつて本がデジタル化される…という時代をみてきたものとしては、そこに「ハイパーカード」や、それをプラットフォームにした「エキスパンド・ブック」といった、紙の本ではできない「デジタル」だからこそ表現可能な本のスタイルがありました。文字や図版だけでなく、動画や音声、3Dデータなどを含めたコンテンツです。エキスパンドブックはその後ハイパーカードを離れ、独自のプラットホームを持つに至りましたが、残念なことに今日当時の電子出版物さえ見ることはできなくなりました。また、Apple社のiBooks AuthorやAdobe社のInDesignなども、実はマルチメディアコンテンツの本を作るためのツールとして登場していましたが、残念なくらい動画や音声など紙の本を超える本は…ごくたまにあるくらいです。電子書籍フォーマットであるePUB(イーパブ)も、そのフォーマットには規格されているにもかかわらず、デジタルならではの表現をもった本はメジャーな出版物としては登場していません。そうこうしているうちに、紙の本と同様の電子書籍、電子コミックが登場し、それこそがデジタルによる本の技術革新…というのは、少し寂しい気もしています。いまのところ「デジタルでなければ表現できない本のスタイル」には至っていない…と、僕は思っています。


○ 知識に重さはないはずなのに、本になったとたんに重さを感じる。

 本に対する不満のひとつに、その[重さ]があります。紙を使っているのだから重たいのはあたりまえだろう!って怒られそうですし、一方の業界からは、だったら電子書籍端末に電子書籍をいれれば、何冊いれたって重さは増えない!っていわれそうです…が、では「紙の本は軽量化に取り組んだか」といえば、それはほとんどありません。判型(本の大きさ)こそ、単行本や新書、文庫版といったあるていの規格サイズにこそなりましたら、ページに使っている紙、表紙、本全体の軽量化に取り組んだということは耳にしていません。これはとりもなおさず、輸送費や倉庫の重量に耐えられる…といったことにも繋がるので、歓迎すべきことだとおもいますし、個人の本好きが本の重さでアパートの二階の床が抜けた…というニュースも、ごくたまにですが耳にします。先日も地元中学生のキャリア教育の一環として図書館の仕事を体験してもらいましたが、その時の感想に「意外と重労働なんですね」とも言われてしましました。
 本に書かれている文字も写真も図も、そこから読み解ける知識にも物理的な「重さ」はありません。しかしそれが「本」になったとたんに重さを持ち、それが当たり前として軽量化に取り組むこともなく今日に至ったことは、すこしだけ悲しく思っているのです。


○ 本はこの百数十年、記録容量に大きな変化はない。

 パソコンの世界には「フロッピーディスク」という記憶媒体があった。さらにその前のマイコンの時代にはカセットテープも使っていたこともあった。フロッピーディスクには8インチ、5インチ、そしてプラスチックケースに入った3.5インチがあり、比較的3.5インチフロッピーディスクは、2HD 1.44MB(メガバイト)の時代が長く続いた。同時に大容量には、MO(エムオー)640MB やZIP(ジップ)750MBなどが登場したり、CD-R 740MB などの書き込み可能なディスクも登場してきた。
 そうこうしているうちに、デジタルカメラなどの登場により、磁気記憶装置からシリコンチップへの記憶媒体が登場し、昨今ではUSBメモリやSDカードなどで、8GB、16GB、32GB、64GB、128GBなど…3.5FDの時代からは、恐ろしいほどの大容量化が進んだ。しかも、しかもである。大きさは1/10なんてもんじゃない。

 例えば、3.5インチフロッピーディスクの容量を縦横1.2cmの1.44㎠と仮定すると、1GBは縦横32cmの面積=1,024㎠になる。USBメモリやSDカードの4GBや8GB、16GBなどは、この1,024㎠が4面、8面、16面もあることになる。しかもこれらの物理的サイズの比較をすると左から3.5インチFD、SDカード、microSDカードである。デジタル系の業界がこの数十年間にこれだけの記録容量を激変させている一方で、紙の本の記録容量には…百数十年間大きな変化は、無い。

○ 本を読むには時間がかかる

 本好きの人には当たり前に聞こえるかもしれない。だが本を読まない人…出版マーケティング的には「未開拓の潜在顧客」の多くは、本を読まない理由に「読む時間がないから」と答えている。それに対して本を作る側はどうしているだろうか。短時間で読める本を作る努力や創意工夫をしているのだろうか? 例えばデッサンや絵画、彫刻・彫塑のジャンルでは、「まずは大まかに全体像を捉え」「それから徐々に細部を描き/作り」「最後は丁寧にディティールを仕上げる」くらいの段階を踏む。中にはいきなり材木から指先を削り出す彫刻家やいきなり細部を描き出す画家もいるにはいるが、ごく希少な存在である。このように読書においても、一度ではなく、まずは全体像を把握、徐々に細部を読み、最後は一字一句を読んでいく…ような段階的読書方法だって有ると思っている。だが、残念なことに、そのような読書スタイルに対応した出版物は、みあたらない。(ビジネス書系にはあるかもしれないが)
 本のイノベーションのタネとして「読者に時間をかけずに本を読むための工夫」みたいなところに、技術革新はあるかもしれない…と、思っている。


○ 本を読んでも覚えていられない(忘れちゃう!)

 時間の無い中で、読書の時間を作り、一字一句丁寧に読むことができたとしよう。問題はその次だ。「読んだ内容をすぐに忘れてしまう」のだ。これは読者側の能力の問題…といってしまえば、それまでだが、もう一方で「記憶に残らない本を作っている」という感覚を持って欲しい。一度読んだら忘れない本。書いて有る内容…いやむしろ著者が伝えたい内容を読者が忘れないようにする工夫。そんなところに、本のイノベーションのネタが埋まっていると思う。
 場合によっては、読み終えても登場人物の…いや主人公の名前すら覚えていないこともある。読み終えたはずの本の内容を誰かに伝えたくても、読み終えたことは覚えていてもどんな内容だったかを人に説明できるほど記憶していない…のだ。
 人の記憶は不確かな一方で、とんでもない瞬間を記憶していることがある。雑誌のページをぺらぺらめくりながら、読み飛ばしたページの右上にあった絵が何か気になったのだけど、そのページを探せない…みたいなことが、僕にはある。パラパラとめくっているだけのページのはずなのに、特定の文字(キーワード)だけが目に入って記憶しているのだけれど、そのページを探すのにこれまた時間がかかったりもする。ぼくだけの症状なのか、他の人にもあるのかはしれないけれど、『ぱらぱらとページをめくるだけでも記憶に残る編集方法』がありはしないだろうか。
 また、記憶の濃淡/強弱…ここだけは覚えて欲しい。みたいな編集方法もありそうに思うのだ。


○ 僕たちは何のために読書をするのか。

 本を読み終えたことだけは覚えているけれど、主人公の名前も登場人物の名前も、いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした…いわゆる5W1Hを他人に伝えられるほど、読書をしても記憶しているわけでは無い。村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだ人は、主人公の名前を言えるか自問してみるといい。
 さて、一方で読書は学びのためにする…ということも言える。知識や他人の経験を追体験するのもまた読書の役割だと思う。ただ本当に著者が伝えたい知識が、ちゃんと伝達できているのだろうか?いや、そもそも「知識」とは何かという定義すらあいまいではないか。いやいや世の中には「知識工学」といものがあってだな〜…と、あれやこれや。
 読了後、内容を覚えていないのはしかたがないと譲っても、知識として何が得られたのか…は、重要な問題だ。これはいわゆる「費用対効果」。本を買うにしても、仮に無料の図書館で借りるにしても交通費や時間などの労力をかけるわけだから、それに見合うだけの見返りがなければならない。
 一字一句暗記しなくてもいい、内容の5W1Hを誰かに伝えられなくてもいい。だけど『読んだことで知識を得る』ことができなければ、もう本などは買わない。
 そういう意味で、読了後『知識を得られる本』『得られた知識を忘れない本』そういう本を著者は書くべきだと思うし、編集し出版する側も、そこに本のイノベーションのネタが眠っていることを考えて欲しいと思っている。


あとがき

 実はなぜこんなことを書いたかといえば、とある人から「丸山さんも本を出したら〜」と言われたからなのだ。常日頃から「今の本には他の産業のようなイノベーションが無い」と言っているだけに、自分で出す本が、まったくのイノベーションの無い本だったら、もう誰も丸山の言葉に耳を貸さなくなるだろう。もし僕が書く本があるとしたら、少しでも従来の本とは違う「イノベーティブ」な部分を持っている本にしたい…と、思い立ったので、こんなことを書き出してみた。

 もちろん、印刷や製本、編集の製造サイドにおいては、版木から活字、写植を経てDTPへと大きな変化があったし、それにより生まれて没した産業があることも知っている(活字産業は写植産業によって消え、写植産業はDTPの登場によって消えました)。

 ここまで読んでいただいた人がいらっしゃったら、深く感謝いたします。
 本に対する愛と憎しみと屈折した思いをもちながら、この情報や知識や物語の世界に、まだしばらくはいる予定です。

ありがとうございました。
プロフィール

yoshytom

Author:yoshytom
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