差額ベッド代で家計が破綻する。増え続ける差額ベッド代のトラブル

差額ベッド代で家計が破綻する。増え続ける差額ベッド代のトラブル
2015/05/22

東京中央区に「聖路加国際病院」というのがある。

もしもあなたが都内に在住していて突然の急病で救急車を呼び、たまたまこの病院に運び込まれたとしよう。

入院から半月たち支払いの請求が回ってきてあなたはその高額な請求額を見てきっと驚くことになる。

1日分の差額ベッドの請求額が32,400円となる。しかも最低の金額でだ。
1ヶ月入院したら972,000円、3ヶ月で2,916,000円になります。
医療費や食事代、雑費は別です。

しかもこれは最低の値段です。特別個室で一泊108,000円というのもあります。

しかしこの聖路加国際病院に関しては病院が不当な差額ベッド代の請求をしているということではない。

なぜならここの病院では快適な医療空間と最高の医療技術を提供する代わりにその分費用はかかりますよと対外的に積極的にPRしている。

その経営方針は世間でもある程度認知されているのでそれを知らなかったあなたが無知だったと言う事になります。
個室料金についてもむしろ珍しいくらい積極的に開示している。

入院する方も個室料金の金額については了解しており、望んで入るのだから何も問題はない。
富裕層ご用達の病院なのだから。

むしろ一般病院での差額ベッド代のトラブルが急増している

個室料金のことで、たらい回しにされた経験をされた方のブログ記事がありましたので一部引用させてもらいます。

急病になり駆けつけた救急士に経済的に苦しいので差額ベッドのかからない病院をお願いして救急救命士さんに電話でアタリを付けてもらったらとアットいう間に7件の病院から断られた言うのだ。

全て同じ理由で「現在、大部屋が塞がっているので、個室オーケーの患者さんでない限り受け入れられません」というのが理由だそうだ。

どこの病院も大部屋は一杯、個室でないと受け入れてもらえないとの回答。

よくニュースで出てくる「急患たらい回し」という状態が、自分の前でまさに起こっている。
それは医師が足りないからでも、急病人が続出しているからでもなく、「個室料金が払えるかどうか」の問題なのである。
こんなの、格差社会が進行したらどうなるんだろう。

出典 イジハピ!
差額ベッド代がかかるのは本人が希望した場合のみのはずだが

厚生労働省の見解では
患者自ら特別室を望んだ場合となっている。つまり患者本人が望まなければ払う必要はないとなっている。

差額ベッド代については厚生労働省から各医療機関に対して以下のような通達が出されている。

(平成9年3月14日 保険発第30号)

患者への十分な情報提供を行い、患者の自由な選択と同意に基づいて行われる必要があり、患者の意に反して特別療養環境室に入院させられることのないようにしなければならないこと。

したがって、特別療養環境室へ入院させ、患者に特別の料金を求めることができるのは、
患者側の希望がある場合に限られるものであり、
救急患者、術後患者等、治療上の必要から特別療養環境室へ入院させたような場合には、患者負担を求めてはならず、患者の病状の経過を観察しつつ、一般病床が空床となるのを待って、当該病床に移す等適切な措置を講ずるものであること。

特別療養環境室への入院を希望する患者に対しては、特別療養環境室の設備構造、料金等について明確かつ懇切に説明し、患者側の同意を確認のうえ入院させることこの同意の確認は、料金等を明示した文書に患者側の署名を受けることにより行うものであること。



医療機関が特別室に患者を入れて「差額ベッド料」を徴収できるのは、患者が希望し、納得した場合のみだということがはっきりと謳われている。
だから病院側は何が何でも同意書が必要なのだ。
逆を返せば同意書があれば患者本人が望んだ事になる。以下のようなケースだ。

本人は希望していないのにいつの間にか希望した事になっている

もしあなたが緊急入院する必要に迫られたとき病院側から大部屋が空いていないので個室を勧められ同意書にサインを拒否した場合、おそらく他の病院を当たることを勧められる事になるでしょう。

うちでは引き受けられないのでよその病院へどうぞと言うことです。
入院した後で揉められるよりは他所へ行ってもらったほうが良い、またこれを言えばサインをせざる得ないだろう、ということも推測されます。

救急車で運ばれているのだから緊急の処置が必要な患者側にしてみればその場で「NO」と言えるでしょうか。

殆どサインしてしまいます。

そのときの患者は弱い立場に立たされているわけですから同意しないわけにはいかない状態に追い込まれてしまいます。

本来は差額ベッド代の支払いは「本人が希望した場合のみ」が原則のはずだが現実は望んでいないのにサインをしてしまえば本人が希望したことになってしまいます。

その結果、患者が知識が無いことをいいことに気が付かなければいいと思って「差額ベッド」の部屋に押し込んでしまうことが行われ、退院時にトラブルになるケースが増えている。

その時点で本当に空いていないのか、どうかは患者は調べる術はない。

トラブルの根本原因はゆがんだ診療報酬の体系にある

その理由の一つとして、国が診療報酬を下げる政策に踏み切った事にあります。

民間病院の2割が赤字経営となっておりそのためどこの病院も経営状態は厳しいものになっています。

診療報酬は診察や手術、検査などを行った対価として、病院や診療所などが受け取る医療費のことであり国から価格を決められている

それに対して「差額ベッド」というのは病院の自由裁量で価格が決められる利益を上げるのに最も効率の良い方法なのです。

国立大学の法人化を機に、収支改善を求められた東京大学医学部付属病院も、「1045床」のうち「471床」を差額ベッドにして稼働率を上げ、増収を実現した例もあります。

病院が患者が望まないのに特別室へ入れようとして同意書にサインを求めてくる理由が見えてきます。

どういう状況であれ特別室へ入室するという同意者にサインがあれば後でトラブルになった場合「同意されているじゃありませんか、同意書にサインがあるということはあなたが望まれて入ったと言うことですよね。
当病院には責任はありません」と言われるのは目に見えています。

つまり国の立場からすれば出すものは今まで以上に絞りますから、取れるところからとって利益を上げなさいよ、ということです。

これだけ問題になっていることは厚生労働省の方でも把握しているはずなのだから「大部屋が空いてないのは病院の都合によるものである」とハッキリ明記すればよさそうなものだがその点については明記されていない。

あいまいにしておく必要があるのです。


平等な医療を受ける権利を失う事になる

高齢化が進み年金のみで暮らしている人やまた非正規雇用で働く人が「1900万人」を超えて所得格差が広がり経済的に余裕のない世帯が増えている。

場合によっては差額ベッド代の支払いをカードローンで借金をして返済しなければならない人もいるだろう

弱い立場にある患者から「差額ベッド代」を取らなければ経営が成り立たないような診療報酬制度はゆがんでいるとしか思えない。

高額な差額ベッド代を払えないために治療を断念するケースも起こりえるなど患者の医療を平等に受ける機会を損ねることにもなりかねない。

差額ベッド代の支払いはどこまで拒否できるのか

では同意書があれば返還請求は100%不可能かと言うとそんなことはありません。

厚生労働省の通達文書によると治療上の都合や病院側の都合の場合には払わなくても良いことになっています。

1、書面での同意が無い 同意書による同意の確認を取っていない。

2、救急患者等,治療上必要と医師の判断で特別療養環境室へ入院させた場合には患者に負担を求めてはいけない。

3、MRSA等に感染している患者を入院させる場合、主治医等が他の入院患者の感染を防止するため、患者の選択によらず入院させたと認められるような場合。

現実的にどのように対応すればよいのか

サインをする前に経済的に支払える余裕が無いとハッキリと告げ病院と相談してみましょう。
値段を下げてもらえる場合もあります。
ソーシャルワーカーがいる病院なら病院と直接交渉する前に相談してみるのもよいかと思います

入院する前にあまり事を荒げたくないときには同意書にとりあえずサインをして署名の横に「大部屋希望」と一言書き添えておきましょう。

本人が望んで特別室へ入ったのでは無いという証になります。

とりあえず無事に治療を終えどうしても納得がいかなければ支払いの段階で一筆書き添えた同意書のコピーと厚生労働省からの通達文のコピーを添えて再度交渉します

病院側は世間体上あまりトラブルは起こしたくないので、厚生労働省の通達文書を見せただけで返還されたケースもあります。

不当な差額ベッド代を取り返すという行動を起こすことは患者側にも覚悟がいります。

それは今後この病院には二度とお世話にはならないという覚悟が必要です。

医療機関関係のトラブルなどで困った場合に相談に乗ってくれる窓口があります。
どうしても解決できないときには相談してみましょう。

社会保険に加入している場合:各都道府県の地方社会保険事務所
国民健康保険に加入している場合:都道府県の国民健康保険課
厚生局に電話する:関東信越や、近畿などのエリア毎に「厚生局」という国の機関があります。

厚生局は厚生労働省の地方支部支局の1つです。
保険医療機関等の指導監査も行っていますので 入院する病院の所在地を管轄する厚生局に電話をして、事情を説明します。
認められれば病院に指導がいきます

地方厚生局一覧はこちら
http://kouseikyoku.mhlw.go.jp/

民間の相談組織もあります。
(医療法の消費者組織)COML は「1990年9月、医療を消費者の目で捉えようと1990年9月に活動をスタートした市民中心のグループで
医療にかかわる相談に乗ってもらえます。
(差額ベッドの電話相談だけでも年間150~200件あるそうです。)
http://www.coml.gr.jp/

突然の怪我や病気は年齢に関係なく誰も身の上にも起こりうることです。
もしかしたら明日あなたが救急車で運ばれて同意書にサインを求められる立場になるかも知れません。

いざというときのために、普段からあなたが住む近くの救急病院のおおよその差額ベッド代の金額を調べておくことも必要なのではないしょうか、
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新栽培技術の理論体系―栄養週期学説の技術的展開

新栽培技術の理論体系―栄養週期学説の技術的展開
著者:大井上康
定価:2,500円(本体)
出版社:全国食糧増産同志会

新栽培技術の理論体系
作物を栽培するということは生き物を育てるということだ。生産現場ではとかくそういったことを忘れがちで、作物を道具のように考えがちだ。いかに農業を取り巻く環境が変わろうと、資材が変化しようと、作物の生理にかわりはない。その植物生理を、農業生産の現場で応用することができるように説いているのが本書である。著書の提唱する「栄養週期」は、植物には栄養成長と生殖成長そしてその間に交代期があり、それぞれの時期に相応の生理的変化があるということに着目した栽培理論だ。しかも、単なる増収技術にとどまることなく、経営に寄与することが技術の本来の目的であるという思想が根底にある。本書の発行は、1949年と古いがその内容は陳腐化していないばかりか、細分化を極め行き詰まりつつある現在の農業技術に対し、新しい視点を拓いてくれる。播種、施肥方法、土壌といった栽培にかかわるすべての事柄を、作物の側からの視点で追及している。現在、一般にいわれている技術論の対極をなす理論体系であるが、かつて栽培が難しいといわれていた「巨峰」を「栄養週期」に沿った栽培方法で全国に普及した実績でわかるとおり、品質追求や低コスト栽培に役立つ、生産者のための実践的な栽培理論書だ。

中村とうよう氏の「遺書」

中村とうよう氏の「遺書」
音楽

先月21日に自殺した音楽評論家中村とうよう氏(享年79歳)の「遺書」として最後の「とうようズトーク」が掲載されるという『ミュージック・マガジン』2011年9月号(通巻586号)を買った。

この雑誌を買うのは約20年ぶりである。私がはじめて買った『ミュージック・マガジン』は1982年2月号(通巻169号)であった。今その号を読み返すとどうってこともないが、当時洋楽に興味が出はじめたばかりの子供だった私にはえらく難しいことばかり書いてあり、でもそれが未知の音楽の響きを伝えてくるようでドキドキしながら読んだものだった。それ以来、1990年代の初めまで気になるテーマの号は時々買っていた。別冊や姉妹誌(『レコード・コレクターズ』『ノイズ』など)を買うこともあった。中村とうよう氏の著書も何冊か読んだ。いずれも興味深いものであった。

自分がラテン音楽を聴くようになったのも中村とうよう氏の影響が大きかったと思う。


さて、「とうようズトーク」の最終回はどんな「遺書」なのだろうか、ひょっとしたら陰鬱きわまりないことが綴られているのではなかろうかと、覚悟してページを開くと、深刻な文面ではなく、あっけらかんとするほど飄々としていた。辛辣な批評家で一種毒舌が売りだった人とは別人のようだ。

いま一人暮らしのとうよう氏でも、このままどんどん老衰していけばいずれ誰かの世話にならなければならなくなるかもしれず、そうなって生き続けるのも嫌だから、まだ元気なうちに自分で人生を終えよう、ということであったらしい。そう覚悟ができるほど、やりたいことをやって楽しい人生だったからもういいや、と決めたようだ。

実際は、もっと深い悩みがあったのかもしれないし(下記引用文中に何となくそれを窺わせなくもない)、そんなことを思うこと自体がどこかおかしくなっている証拠だから、もっと早く友人知人が気づいて救いの手を差し伸べるべきだった、と言えなくもないが、達観して自分で人生の幕引きができるのもまた生き方の一つとしてあってもいいのではないかと私は思った。


飛び降り自殺した日の夜、親しい人の元に届いた遺書には

「人生に絶望して自死を選ぶ、といったものではありません。まだまだやらねばならない仕事がいっぱいあるのに、それらが実現するまでに要する時間のあまりの長さが予想されるので、短気な私はもう既にウンザリしてしまっており、それで自死を選ぶことにしたんです」

とあったという。


最後の「とうようズトーク」は、7月アフリカに南スーダンという新しい国ができたことに触れスーダンの音楽の回想のあと、話が変わって、07年5月号には少子高齢化の時代に過疎の田舎の老人はもうどこかに集まって住むようにするしかないしその運命を拒む老人のエゴイズムは不可能だ、老人として身の処し方は考えてます、と書いたっけと振り返り、最後はこう結ばれていた。

そしてぼくは今や79歳の老人。やっぱり老人の生き方の問題って人それぞれで、一般論で語れる部分ばかりじゃないんですね。
ムサビにレコードや資料や楽器を渡しても、ムサビにはムサビの問題があり、それがぼくの問題ととうまく整合するケースばかりじゃない。ではそれをどう解決するか。ぼくは自分の生命の問題として解決する道を選ぶことにした。これってわがままですよね。
(中略)
でも自分ではっきりと言えますよ。ぼくの人生は楽しかった、ってね。この歳までやれるだけのことはやり尽くしたし、もう思い残すことはありません。最後の夜が雨になってしまったのがちょっと残念だけど、でもあたりにハネ飛ぶ汚物を洗い流してくれるんじゃないかって、思ってます。実はこのマンションを買ったとき、飛び降りるには格好の形をしてると思ったんですよ。
という訳なので、読者の皆さん、さようなら。中村とうようというヘンな奴がいたことを、ときどき思い出してください。

さようなら、とうようさん。一生忘れません。

4、カントの神の存在証明に対する批判

4、カントの神の存在証明に対する批判

カントは『純粋理性批判』(A.1781,B.1787)において、それまで試みられてきた神の存在証明は結局三つの証明に帰するとする。すなわち、「宇宙論的証明」、「自然神学的証明」、「存在論的証明」がそれである。しかも、前二者は結局神の概念からその存在を証明しようとする存在論的証明に依拠するとされる。

神の宇宙論的証明と自然神学的証明は、いずれも何らかの経験から出発してもっとも実在的な存在者、すなわち神の存在へと達しようとするものである。まず宇宙論的証明をみると、それは従来世界の偶然性からする証明と呼ばれたものである。世界において何かが存在するとすれば、その究極的な原因として絶対的、必然的なものが存在しなければならない。世界における存在者はすべて偶然的なものでそれだけで存在しうるものではないのだから、何らかの原因を有しているのでなければならない。それもまた偶然的だとすれば、さらにその原因が求められなければならない。そして、こうした原因の連鎖の果てに、絶対的、必然的なものが存在しなければならない。だが、そうしたものとして考えられるのは、もっとも実在的な存在者としての神のみである。したがって神は存在する。

カントはこうした神の宇宙論的証明を基本的に次のように批判する。まず、それは因果性のカテゴリーは感性界においてのみ妥当するはずだが、それを「感性界を超越するために」用いており、しかもその際不当に「第一原因を推論する」ことがなされている(K.d.r.S.580)。次に、この第一原因としての神が存在するとされるが、そのことは神の概念からその存在を証明しようとする存在論的証明を前提としている。しかし、その証明こそが神の存在証明における最大の難点をなしているのである。こうしてカントによれば、神の宇宙論的証明は、回り道はしたものの、「我々がかつて見捨てた古き小道へと連れ戻す」という「論点相違の誤謬」を犯しているのである(K.d.r.S.579f)。つまり、宇宙論的証明は「隠された存在論的証明にすぎない」というわけである(K.d.r.S.595)。

次に、神の自然神学的証明は世界の内に見出される特殊な性質、すなわちそこにおける秩序や合目的性などから出発して神の存在へと達しようとするものである。確かに、世界の内には秩序や合目的性などが存在する。しかし、それらの事実は自然の作用のみによっては説明されえない。だとすれば、世界の根底にそれらを創造した神が存在しているのでなければならない。

この自然神学的証明は古くから行なわれてきたものであり、常識にも適合している。しかし、カントによれば、それは「人間の技術との類比」にもとづいて、世界における秩序や合目的性などを創造した神を推論するものだが、だがそれによっては「自らの加工する素材の適不適によって大いに制限される世界建築師」には達するとしても、質料をも創造する「世界創造者」に達することはできない(K.d.r.S.593)。そこで、そうした世界建築師が同時に世界創造者、すなわちもっとも実在的な存在者、神でありうるためには、その証明は世界において何かが存在するとすれば、その究極的な原因として絶対的、必然的なものが存在しなければならないとした神の宇宙論的証明に依拠しなければならないことになる。だがカントによれば、こうして神の自然神学的証明はその企てにおいて行き詰まって「困惑の余りにわかに宇宙論的証明へと飛躍した」のだが、すでに触れたように、後者は「隠された存在論的証明にすぎない」のである(K.d.r.S.595)。したがって、神の自然神学的証明の根底には宇宙論的証明が存し、そしてこの証明の根底には存在論的証明が存する。そのために、神の存在証明が可能であるとすれば、「純粋な理性概念のみからなされる存在論的証明が唯一可能なものである」ことになろう(K.d.r.S.596)。しかし、他の証明の根底をなすその証明もまた挫折せざるをえないのである。

神の存在論的証明はアンセルムス以来の神学的、哲学的な伝統を有するわけだが、それは基本的に次のような手順で行なわれる。もっとも実在的な存在者であること、それが神の概念である。この神の概念の内には、そのことを否定すれば矛盾に陥らざるをえないのだから、神が現実に存在するということもまた含まれている。したがって神は存在する。ヘーゲルは『エンチュクロペディー』の「予備概念」において、この神の存在論的証明をそれなりに評価して次のように述べている。すなわち、「その現存在がその概念と異なっているということ」が、すべて有限なものの本質である。しかし、神は明らかに「「実存するものとしてのみ考えらるれもの」でなければならず、神においては概念が存在を含んでいる。概念と存在とのこうした統一こそが、神の概念をなすのである」(E.L.§51.S.136)。

しかし、カントはこうした神の存在論的証明を次のように批判する。なるほど神は純粋理性の理想ではあるが、それはやはり理念であって、その客観的な実在性を求めたとしても到達されえないものである。つまり、もっとも実在的な存在者であるという神の概念からその存在を導き出すことは不可能である。たとえば、百ターレルというものを考えてみると、現実の百ターレルも可能な百ターレルも、概念としては同じものである。しかし、私の財産状態においては、両者はまったく異なったものである。すなわち、その状態においては、「現実の百ターレルの方が百ターレルという単なる概念(すなわちその可能性)よりも多くを含んでいる」。どこに相違が存するかといえば、現実の対象は私の概念に「総合的に付け加わるもの」であるからである(K.d.r.S.572)。

事情は、神の存在論的証明の場合も同様である。神という概念に関しても、「その概念に現存を付与するためには、その外へ出なければならない」(K.d.r.S.574)。しかし、神という純粋理性の対象に関しては、それを認識する手段が欠如している。つまり、神の存在論的証明においては、「その対象の認識がアポステリオリにも可能であるということが欠けている」。だが、そこにこそ「ここで当面している困難の原因」が存しているのである(K.d.r.S.573)。周知のごとく、カントの認識論においては、人間の認識は感性と悟性が協同することで生じるものであった。対象は感性によって与えられ、悟性によって思惟されるわけだが、その際、「内容なき思想は空虚である」とされるように(K.d.r.S.95)、感性をとおして認識の素材が与えられることが、認識の成立にとって不可欠の条件をなしている。そうしたカントの認識論の枠組からすれば、神という純粋理性の対象を認識することなどそもそも不可能なのだといえよう。ともかく、カントによれば、こうして神の存在論的証明もまた失敗に帰すことになる。そのことは、結局それに依拠することになった宇宙論的証明と自然神学的証明もまた不可能であることを意味する。

しかしカントは、「その客観的な実在性はなるほど思弁的な方法によっては証明されえないが、しかしまた反駁されることもできない概念であることにかわりはない」とされるように(K.d.r.S.604)、神の存在を否定しているわけではない。従来の形而上学におけるように、それが理論的に認識されうることは否定されるものの、もっとも実在的な存在者であるという神の概念は、「単なる理想」ではあっても、「人間の全認識を完成させてそれに王冠を与える概念」という位置価を有するのである(K.d.r.S.604)。つまり、それは統一を志向する認識に対して「統制的な理念」をなすのである。そしてカントが、実践の領域では、自由、霊魂の不死とともに、神の存在を人間の道徳性が成立するための不可欠の条件として要請したことは周知のとおりである。

カントによる神の存在証明に対する批判をみたが、彼も指摘しているように、それが存在論的証明の可否の問題に収斂することは確かであろう。ところで、ヘーゲルがそれなりに神の存在論的証明を評価していることはすでにみたとおりである。『宗教哲学講義』では、カントから出発した近代の見解、すなわち「概念を我々がもつ実在性、つまり具体的な人間において測る」見解に対して、神に関する形而上学的な見解は、その対象を「思想として受け取る限りにおいていっそう優れており、さらにまた、それが不完全なものに固執しない限りにおいてもいっそう優れている」と評価している(V.R.ⅡS.212f)。そこで、まずヘーゲルがいかにカントの神の存在論的証明に対する把握を批判しているかをみることにしたい。

『エンチュクロペディー』の「予備概念」では、その批判は次のようになされている。カントによる神の存在論的証明に対する批判がかくも受け入れられた理由の一つは、それが神の概念と存在との区別を明らかにするために百ターレルの例を用いたことによるが、なるほど常識的な観点からすれば、表象や単なる概念が存在とは異なるということは当然なことであろう。しかし、まったく抽象的な概念ですら、その内に存在を含んでいることは明らかではなかろうか。「というのも概念は、その他いかに規定されるにせよ、媒介の止揚によって生じるところの、したがってそれ自身自分自身への直接的な関係であるからである。ところで、存在とはこうした自己関係にほかならない」(E.L.§51.S.136)。だとすれば、有限なものではなく、神というまったく別種のものが問題となっている場合には-すでに引用したが-次のようにいわれなければならない。すなわち、「神においては概念が存在を含んでいる。概念と存在のこうした統一こそが、神の概念をなすのである」(E.L.§51.S.136)。

先にみたような感性をとおして与えられたものにのみ存在の資格が与えられるというカントの認識論的な枠組、つまり、「対象が実際に存在していることが認識されるのは、この対象が思想の外にそれ自身において定立されるというまさにその点に存する」というその枠組は(K.d.r.S.602)、存在というものを捉えるためには狭すぎるといわざるをえないであろう。それに対してヘーゲルは、存在を媒介が止揚されたところの直接性として、したがってまた同一性として捉えているのである。もちろん、ヘーゲルにおいても、神という概念は存在というもっとも貧しい規定、もっとも抽象的な規定にとどまるものではない。

『宗教哲学講義』では、神の存在論的証明はさらに次のように捉えられている。なるほど、神の概念が存在を含むということは正しい。だが、その証明においてはむしろ「概念と〔現存在(Dasein、Existenz)を含む〕実在性との統一」が前提されており、それが「理性に対して満足を与えないのはこのためである。というのも、問題となっているのはまさにこの前提そのものであるからである」(V.L.Ⅱ.S.211)。しかしまた、概念と存在を区別したカントの立場が正しいというわけでもない。「概念と存在の差異をカントは証明していない」(V.R.Ⅱ.S.210)。彼においては、それは通俗的な仕方で想定されているにすぎない。概念と存在は統一されているだけでなく、また区別され、さらには対立している。「この対立は止揚されなければならない。そして両規定の統一は、それは対立の否定からの結果であるという仕方で示されるべきである」(V.R.Ⅱ.S.210)。ヘーゲルはこうした神の概念と存在との関係を、さらにその概念が自らを客観化し、実在化する運動として捉えている。「しかし、概念が自らを自己において規定し、自らを客観化し、自分自身を実在化するということは、一つのさらに進んだ洞察である」。それは「概念の本性から生じたもの」である(V.R.Ⅱ.S.211)。

すでにみたように、ヘーゲルにおいては、存在とは媒介が止揚されたところの直接性として同一性を意味している。だが彼は、もっとも実在的な存在者である神は、さらに自らを展開することをとおして自らを実現し、かくして自分自身の内へと還帰する運動性を有するものとして捉えているのだといえよう。なるほど、カントの存在把握が狭すぎることは確かであろう。しかし、神の存在論的証明においては概念と実在性の統一が前提されていたとすれば、ヘーゲルにおけるように、その概念は存在との区別を含んだ統一であるだけでなく、さらには自らを客観化し、実在化する運動性を有するものだとすることも、やはり一つの前提ではなかろうか。だとすれば、それによって-ヘーゲルは「絶対者は感覚に対してではなく、精神と思想に対してのみ存在する」のだとさらに反論するであろうが(E.L.21.S.78)-神の存在論的証明が従来よりも擁護されているということはできないであろう。

ところで、ヘーゲル自身が哲学は絶対者、神を前提とすることを認めている。イエナ期初期の『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(1801)において、ヘーゲルは「分裂が哲学の要求の源泉である」とした後(27)、「哲学の前提」に関して次のように述べている。哲学には「二つの前提」が存在するが、一つは「絶対者そのもの」であり、もう一つは「意識が総体性から外に出ていること」、すなわち意識が分裂していることである(28)。そして、「何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私の内にあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能である」ということから出発したデカルトにおける神の存在証明を想起させる仕方で(29)、「求められる目標」としての絶対者に関して、さらに次のように述べている。「絶対者はすでに現存している。さもなければ、どうして求められることができようか」。意識が陥っている分裂は止揚されなければならないが、そのことは「制限のない事態〔絶対者〕が前提されていることに条件づけられているのである」(30)。こうしてヘーゲルによれば、「絶対者が意識に対して〔再〕構成されるべきであること、それが哲学の課題である」(31)。

なるほど、分裂に陥った人間や社会などを批判するためには何らかの基準が必要であり、そして究極的には-ヘーゲルにおけるように-絶対的なものが基準として求められることになろう。しかし、哲学の前提とされた絶対者を神の存在論的証明の問題と関連づけると、その証明を擁護しようとしたヘーゲルも、いかに概念と存在の統一としての神が自己媒介、自己実現の運動を含むことが強調されるとしても、結局絶対者としての神を前提としているといわざるをえないであろう。「絶対者はすでに現存している。さもなければ、どうして求められることができようか」とされる所以である(32)。

なるほど、ヘーゲルの哲学もそれなりに宗教に対して固有性を保持している。『宗教哲学講義』では、哲学と宗教の関係に関して次のように述べられている。哲学は宗教の上位に立つということで批判されたが、それは誤りである。ただ哲学は、宗教と同じ内容を「思惟の形式において提示する」のであって、したがって宗教の「信仰という形式の上位に立つだけであり、内容は同一のものである」(V.R.Ⅱ.S.341)。つまり、宗教は真なるものを感情や表象の形式において捉えようとするのに対して、哲学はそれを概念的に把握しようとするわけである。しかしまた、宗教と哲学は一致するのだから、「哲学は実際神事(Gottesdienst)であり、宗教である」ともされるのである(V.R.Ⅰ.S.28)。

こうしてヘーゲルもまた神の存在を前提としており、そのためにその神の存在論的証明の擁護も成功しているということはできないであろう。もちろん、神の存在はいわば人間と世界の原理のごときものなのだから、それを証明することはできないのだともいえよう。しかし、ヘーゲルは「絶対者が意識に対して〔再〕構成されるべきであること、それが哲学の課題である」としていたが(33)、絶対者としての神を-もちろんヘーゲルとは異なった仕方ではあるが-有限な人間の側から再構成的に捉えることもできると考えられる。デカルトにおける神の人性論的証明に即していえば、完全なものの観念を前提としつつ、だがそこから神の存在の証明へと向かうのではなく、それを我々人間の側から再構成することもできるのではなかろうか。そこで最後に、そうした観点からヘーゲルの『精神現象学』を読み解いてみたい。

公理的集合論以前の熱狂について(Ch.S.パースの「関係項の論理学」に寄せて)

公理的集合論以前の熱狂について(Ch.S.パースの「関係項の論理学」に寄せて)
投稿日: 2014/03/12 作成者: 荒井 正樹

Ch.S.パースの「関係項の論理学」はとにかくすごい論文である。ハーヴァードでの講演に基づく『推論と事物の論理』の中核をなすこの第三論文は、パース哲学の土台となる三項のみならず、記号論理学の先駆をなす着想を独自の記法(存在グラフと事物グラフ)によって提示する。さらに注目すべきは、無限に関する公理的集合論成立以前の形而上学的夢想が展開されていることで、ラッセルが注目したのも当然である。

ラッセルのタイプ理論も、同時期に確立された公理的集合論も、パラドックスを回避するための理性的な手段であり、この意味でアンチノミーを回避するために取られたカントの策略と同型である。わたしがパースに惹かれる理由の一つは、こうした策略に“先立つ”熱狂を目の当たりにできることにある。
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