グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo)ヨハネ賛歌

グイード・ダレッツォ(Guido d'Arezzo:Guido Aretinus, Guido Monaco とも表記される、991年または992年 - 1050年)は、中世イタリアの音楽教師。現在用いられる楽譜記譜法の原型を考案した。また、Micrologusと呼ばれる、中世の音楽史上に広く受け入れられた論文を発表したことでも知られる。

グイードの生没についてはよくわかっていないが、フランスで生まれたのではないかとする説がある。カトリック教会の修道会ベネディクト会の修道士でイタリアのアレッツォに住んでいた。最近のMicrologusの研究により、1025年か1026年、彼はある手紙の中で34歳と記していることから、生まれたのは991年か992年であることが推測される。彼はアレッツォに移る以前、アドリア海沿岸、フェラーラにほど近いポンポーザ修道院(en)に所属していた。彼はポンポーサ時代、聖歌隊がグレゴリオ聖歌を暗記するのがとても困難であった、と記している。グイードは聖歌を短期間で覚えられる方法を考案し、北イタリアで有名になった。しかし他の修道士からの反感を買い、アレッツォに移った。アレッツォに修道院はなかったが、指導が必要な歌手が多数いた。
アレッツォの大聖堂で唱歌隊を指導する傍ら、グイードは『アンティフォナリウム序説』という、どんな楽曲を表記する場合にも標準的に使える記譜法を説明した音楽教師向けの実践的なテキストを著した。楽曲の記憶を補助するこの優れたテキストは巷間に流布し、多くの写本が作られた[1]。 グイードの音楽指導法は高く評価され、1028年、当時のローマ教皇ヨハネス19世の前でその指導法を披露した。
グイードに関する記録は1033年を最後に残っていない。1050年ごろアレッツォ、あるいはアベヤーノで死去したようだ。

長音階に語呂合わせの名前をつける「階名唱法」は、グイードが著した『アンティフォナリウム序説』によって広められた。「聖ヨハネ賛歌」は、第1節から第6節まで、その節の最初の音はそれぞれC-D-E-F-G-Aの音になっており、それぞれの冒頭から「Ut Re Mi Fa Sol La」という階名が作られた。Utは現在でもフランスでは使われているが、発音しにくいため「主」を示すDominusのDoに変更され、世界中で広く使用されている。後に「聖ヨハネ賛歌」の最後の歌詞からSiが加えられ、現在使われている「ドレミファソラシ」が完成した。「階名唱法」はポンポーサ時代にすでに考案されたかもしれないが、当時彼の書いた聖歌集は失われていて、よくわかっていない。

ヨハネ賛歌
Ut queant laxis
Resonare fibris
Mira gestorum
Famuli tuorum
Solve Polluti
Labii reatum
Sancte Iohannes
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大相撲春場所 稀勢の里が決定戦制して優勝

大相撲春場所 稀勢の里が決定戦制して優勝
3月26日 23時23分
大相撲春場所は千秋楽の26日、新横綱の稀勢の里が優勝決定戦で大関・照ノ富士を破り、2場所連続2回目の優勝を果たしました。
春場所は25日の14日目を終えて、照ノ富士がただ1人1敗で優勝争いのトップに立ち、2敗で稀勢の里が追う展開となっていました。

千秋楽の26日は、稀勢の里と照ノ富士が結び前の一番で対戦し、13日目の取組で左肩付近を痛めた稀勢の里が突き落としで勝ち、2人が13勝2敗で並びました。

そして、優勝決定戦でも稀勢の里が小手投げで勝ち、新横綱としての執念を見せ2場所連続2回目の優勝を果たしました。

新横綱の優勝は年6場所制となった昭和33年以降では、昭和の大横綱・大鵬、稀勢の里の師匠だった隆の里、平成の大横綱・貴乃花に続き4人目で、平成7年初場所の貴乃花以来、22年ぶりの快挙です。
稀勢の里「苦しかった分 うれしい」
稀勢の里は表彰式を前に涙を流しました。そして表彰式のあとのインタビューで、「応援と支えてくれた人たちのおかげです」と話したあと、涙について聞かれ、「今回は泣かないと決めたんですが」と、言葉に詰まりました。

今回の優勝については「苦しかった分、うれしいですね。きょうは気持ちだけぶつけようと思った。自分の力以上のものが出た。最後まで諦めなくてよかった」と振り返りました。
そして13日目の取組で痛めた左肩付近のけがについては、「しっかり治して次の夏場所で元気な姿を見せられるように、あしたから治療に専念します」と話しました。

新横綱として臨んだ今場所については、「横綱土俵入りも初めてやって、今は疲れているというのがいちばんです。何か見えない力を感じた15日間だった」と振り返り、「これからも一生懸命、稽古していい姿を見せることだけを考えたい」と話していました。
照ノ富士「足が動かなかった」
優勝決定戦で敗れた大関・照ノ富士は「やりづらさは特になかった。自分の問題。足が動かなかった。目に見えるつらさと目に見えないつらさがみんなある。これからしっかりやるだけ」と悔しさを押し殺して話していました。
八角理事長「語り継がれる逆転優勝」
日本相撲協会の八角理事長は、新横綱・稀勢の里が優勝決定戦の末、二場所連続の優勝を果たしたことについて、「今後に語り継がれる逆転優勝だ。おとといのけがのことを考えると、まさかこういう結果になるとは思わなかったが、諦めないことの大切さを示した姿は本当に大したものだ」とたたえました。
一方、優勝決定戦で敗れた大関・照ノ富士については「取組に関して言えば左足の踏んばりがきかなかった。彼にしてみればやりづらさがあったと思うがよくやった」と話していました。
弟弟子の高安「すごいのひと言です」
田子ノ浦部屋の弟弟子で関脇の高安は、支度部屋のテレビで優勝決定戦を見守り、稀勢の里が勝った直後から感情が高ぶり、声を上げて泣きました。そして劇的な逆転優勝を果たした兄弟子について聞かれ、「すごいのひと言です」と言葉を絞り出していました。
稀勢の里の両親「名実ともに横綱に」
稀勢の里の父親、萩原貞彦さん(71)は、田子ノ浦部屋の祝賀会が行われた大阪市内のホテルで取材に応じ、「この優勝で名実ともにやっと横綱になった」と喜びを述べました。そのうえで、稀勢の里がけがをおして出場を続けたことについては、「周りの方からは心配していただいたが、出るからにはきのうのような力ない相撲は取ってくれるなと思っていたし、勝たなければいけなかった。きょうは2回ともひどい相撲だったが、本人が言うように、いつもと違う力が働いたと感じた」と話していました。

また、母親の裕美子さん(62)は「けがをした時点で12勝を挙げていて、横綱としての責任は果たしたと思っていたので、できれば休場してほしいと感じていた。ただ、出るからには勝負師なので頑張れという気持ちで見ていました」と、複雑な思いを明かしていました。
母校の中学校では
稀勢の里の母校、茨城県龍ケ崎市の長山中学校には大型スクリーンが設置され、生徒や地元の人などおよそ50人が稀勢の里と、大関・照ノ富士の一番を見守りました。

生徒たちは「頑張れ稀勢の里先輩」と書かれたうちわを振って声援を送り、稀勢の里が勝って、逆転優勝に望みをつなぐと、一斉に歓声を上げていました。

そして、優勝決定戦で再び勝ち稀勢の里が優勝を決めると、割れんばかりの歓声に包まれ、全員でバンザイをして喜んでいました。

中学2年生の男子生徒は「けがをしてまで出場をして優勝を決めた先輩はとてもかっこよかったです。来場所も優勝してほしいです」と話していました。また、地元の60代の女性は「けがをしながらも優勝を決めた横綱の姿に本当に感動しました」と話していました。

「バッハの秘密」淡野弓子著、平凡社文庫。

「バッハの秘密」読了 [読書]
淡野弓子著、平凡社文庫。

タイトルがなんだか怪しいけど、まあ、こんなもんだろ。

この本はJ.S.バッハの生い立ちから死までを簡単にまとめたあと、カンタータ量産期最初の頃の22番と23番、そのあとマタイを解説して、シュバイツァー以降のバッハ研究者の捉え方がどう変わっていったか、そのあとロ短調ミサ、それから著者が特徴的と考えたカンタータを取り上げて、最後に調性などの話をして終わる。なんとも雑多な内容。

その中に出てくるちょっとしたエピソードや、曲のいわれなどが面白い。それ以外にも成人した子供たちがどうなったか、とかトーマスカントル時代にバッハに起こった(自ら導いたものも含めて)事件の列挙なんかは面白かった。

でも、なんといってもこの本の最大の特徴となっている、曲の中にバッハが埋め込んだ音形や数字や言葉にまつわる象徴の解き明かしが一番面白い。

バッハが自分の署名のように14(=B2+A1+C3+H8)という数字を埋め込んでいるのをいろいろなところで見つけるのをはじめ、三位一体の「3」、十二使徒の「12」、「40」日のイエスの断食など特定の数との関係が語られる。またニ長調(D dur)が神を表す調で、ロ短調(H mol)がそれを希求する調であるという。確かにカンタータや受難曲やミサでそう言う使い方をされている、ということがわかる。さらにト長調(G dur)はGott、その平行調のホ短調(E mol)は大地の調であるというが、それはちょっと、という気もしないでもない。

また、フラット(b)は「涙」の象徴、シャープ(#)は十字架あるいは傷の象徴である、という。たしかにその通りになっているのでちょっとびっくりする。著者はそういう象徴をあらゆるところに見つける。

しかし、読んでいてこれは過剰ではないか、と思えてくる。バッハは楽譜を人に見せるためには書いていない。紙が高価だったので余白に詰め込んだり、それでも足りなくて器楽ではタブラチュアにしたり、カンタータのコラールの部分の繰り返しでは調が違っても歌詞しか書いていなかったりする。まさしく演奏のための作業指示書でしかない(そのわりには聖書の言葉はわざわざ赤ペンで丁寧に書いていたりする)。フラットやシャープをいっぱいつけたとしても聴いていてわからない。

曲に埋め込まれたいろいろな数も、曲を聴いてそれを意識できるか、というとまったく不可能である。それを聴き手に意識させることに意味があるのか、と思ってしまう。


僕は音楽に象徴を見つけ出す作業は、その音楽を言葉を使って「わかった」ことにしようとすることで、音楽に対する誤解を助長するだけだと思っている。音楽は固有の文法とボキャブラリを持っていて言葉で表せないものを音楽によって表現しようとしているのに、それをむりやり卑近な言葉に置き換えようとする間違った行為だと僕は思っている。


著者は合唱指揮者で、指揮者という人種は音楽家の中で唯一「言葉」を使って音楽を作らなければいけない職業なので、それは当然かもしれない。でも単なる聴き手、例えばもしバッハがカントルをしていたときにライプツィヒの聖トーマス教会の檀家(檀家って言わないか)だった人たちはどう聴いただろうか、と思うとやっぱりちょっとやりすぎ、という気がする。

しかし、読み終わってちょっと思い直すこともあった。現代の演奏ではたとえ古楽の演奏であっても調によって大きな音色の差はないが、バッハの当時は特定の調がその音色を持っていた。平均率の調律は一般的ではなかったし、管楽器は変嬰音の音色はナチュラルとは違っていたし、弦楽器のガンバは解放弦が共鳴しやすくシャープ系とフラット系の調では響きがまったく違う。バッハがやったように徐々にフラットが増えたりシャープが増えたりすると、聴いていて十分区別できただろうと思われる。フラットが徐々に増えていって涙を催す、ということもあるかもしれない。もちろんそれを意識すれば、だけど。

これを読んでマタイを聴き直してしまった(女房にコピーしてもらったこの3月のThüringer Bachwochenのヘレヴェッヘの録音だった)。マタイはすごい曲だとは思うんだけど、どうも血なまぐさすぎるような気がして、なかなか聴こうと思うほどの気力を持てないでいる。マタイの後半ではピラトの尋問から十字架にかけられて死ぬまであらゆる人が(ある人々は消極的にではあるが)イエスの敵になる。マタイの最後の合唱曲「Wir setzen uns mit Tränen nieder」は、鎮魂の癒しの中にお前たちはまさにそういう愚かなものどもの子孫だと指摘する調子が含まれていて、やっぱりなんともいたたまれなくなった。

やっぱり厳しい曲だわ。それだけ直接影響力を持つ曲だとも言えるんだけど。

ところで、この本ではマタイの第1曲に現れるコラール旋律(O Lamm Gottes,...)を「...少年合唱隊を誂えて別の場所に据えるという演奏方法を無理に採用する必要はないと言えます。」と言っている(新バッハ全集のベーレンライター版コピーにははっきりと「soprano in ripieno」と書いてある)。ええ?でもここはフルオーケストラで二組の合唱も出突っ張りなので、このコラールは誰が歌えというの?

ドキュメンタリー『ミセス・バッハ~バロックの名曲は夫人によって書かれた』~

ドキュメンタリー『ミセス・バッハ~バロックの名曲は夫人によって書かれた』~

3/28(月)、NHK-BS1〈BS世界のドキュメンタリー〉で『ミセス・バッハ~バロックの名曲は夫人によって書かれた』が放送された。
近頃では稀に見る程スリリングで興味深いドキュメンタリー、観ていてわくわくした。

内容は、ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685-1750)の2番目の妻となったアンナ・マグダレーナ(1701-60)が、実は作曲の能力を持ち、その仕事で夫を助けたという仮説について検証するもの。
この仮説を唱えるのは、マーティン・ジャービス教授(音楽家,音楽学学者/オーストラリア・チャールズ・ダーウィン大学)。
彼によれば、バッハの数多い作品の中には、アンナ作曲とすべきものがある。例えば、平均律クラヴィーア曲集の1部、無伴奏チェロ組曲の大部分、《ゴールドベルク変奏曲》のアリア、その他。
この件は、18~19世紀における女性の地位の問題、特に創造的な仕事における女性の能力の問題にも発展する。
マーティンの主張は従来の音楽史を引っくり返す程の驚くべき内容で、反対する学者の方がまだ多数派ではあるだろう。
この番組でその一部始終に答が得られた訳ではない。まだ歴史の真相解明には時間がかかるだろうが、扉は開かれた、そんな印象を持った。

出演し、様々な意見を述べたのは、以下の通り。
一々性別を書くのは寧ろ差別的なようだが、名前だけでは判りにくいだろうから、今回は敢えて。
マーティン・ジャービス教授
サリー・ビーミッシュ(女性/作曲家)
‥番組のナレーションも兼ねる。
エリザベス・アンダーソン(女性/チェンパロ奏者)
ティモシー・ジョーンズ博士(音楽史,音楽学/ロイヤル・アカデミー副学長)
‥ついこの前日記にレポートした『ロイヤル・アカデミー 音楽白熱教室』の講演者である。私には2つの番組がまるで連続するもののように思えた。
アラン・パウェル(歴史学/チャールズ・ダーウィン大学)
ハイディ・ハラルソン(女性/文書鑑定家)
ジョン・バット教授(歴史学/イギリス・グラスゴー大学)
メラニー・ウンゼルト教授(女性/歴史学)
イェルク・ハンセン(「バッハの家」博物館館長)
ルース・タトロー(女性/音楽学)
‥仮説に反対する立場から。
キャロライン・ウィルキンソン(女性/解剖学人物特定センター/スコットランド・ダンディ大学)

幅広いフィールドから出演者は選ばれており、多岐に亘る角度から専門的な発言が行われた。
今回のレポートでは、なるべく生々しく彼等の発言を拾おうと思う。

先に、従来の説を思い切り概括すると、
・アンナ・マグダレーナは、夫バッハの作曲した曲を清書、または書き写しをした。
・彼女は声楽家だった。
・(これはアンナ個別の事柄ではないが)現代より以前、女性に作曲家はいなかった。

対して、マーティン・ジャービスの主張;
無伴奏チェロ組曲はバッハの作ではないとする理由が17もある。
これがバッハの作だとすると腑に落ちないところがいくつもあるのだ。
(但し、この組曲について検証するのはあまりに重い為、番組は個別議論にフォーカスしていない。)‥カッコ内は私の補足。

バッハの名曲は、妻アンナと会ってから作られているものが多い。
つまり、彼女に触発されたか、彼女が作曲に関わっていたか、どちらかだろう。

最新の鑑定技術その他のおかげで、アンナが作曲の現場にいたという仮説に実証のライトが当てられた。
私には、この仮説の信憑性を損なうものは見当たらない。
(無伴奏チェロ組曲の特定はともかく)アンナは間違いなく作曲家だ。

何らかの理由で、アンナの存在を消したい人達がいたのだろう。
これで音楽の歴史が塗り換えられるかもしれない。

マーティンはチェンパロ奏者エリザベス・アンダーソンと会い、会話した。
エリザベスに平均律クラヴィーア曲集第1巻第1番ハ長調の前奏曲を弾いてもらいながら、
マーティン;
この曲には、バッハ自身の手書き譜が遺されていない。あるのはアンナが書いたものだけ。
アンナの手書き譜には、他人の作品を書いた時に発生する筆の運びの遅さやぎこちなさがなく、すらすらとしている。
アンナは夫の楽譜の清書をしながら変更も加えていたのか。また、書いていたのは自作だったのではないか。
この前奏曲は、無伴奏チェロ組曲第1番の前奏曲とよく似ている

この曲には「消えた5小節」の問題がある。
3つの稿が現存し、それぞれ1720,22,25年の記載がある。

最初期稿となった1720年の「ウィルヘルム・フリーデマン・バッハのための音楽帳」は、アンナの手によって書かれた。
ウィルヘルム・フリーデマン(1710-84)というのは、バッハの前妻(マリア・バルバラ)の長男。この時10歳。彼の音楽教育を目的とした曲集である。
この楽譜には所々検討を加え修整した跡がある。そこから、アンナが清書をしただけではないのが判る。
清書のみがアンナに与えられた役割だったのなら、楽曲検討の余地等あり得ない。

この曲は1725年譜にも、アンナの直筆で載せられているが、5つの小節が欠けている。
マーティンは、1725年版が一番先に書かれたと見ている。
1722年版には、現代流通している版と同じく、消えた5小節が入っている。
アンナは、恐らく自身で2つのバージョンを作ったのだろう。

エリザベスは、信憑性は高いもののまだ決定的な立証と迄は言えない、とコメント。

ここで『ロイヤル・アカデミー 音楽白熱教室』の講演者だった、あのティモシー・ジョーンズ博士が登場する。
ティモシー;
バッハの数多い作品の中には自身の作なのか疑問を投げかけられているものがある。
(例えば、バッハの「2つのメヌエット」(ト長調)と呼ばれて愛されていたのは、今ではクリスティアン・ペッツォールト(1677-1733)の作品だという事が明らかになっている。)
他の作曲家や親族、もしくは創作仲間等が書いたと言われるものもある。が、作曲者が誰であったとしても、楽曲の素晴らしさが損なわれる事はない。
(当時は、著作権等いう概念はなかったから、こうした事はしばしばあった。自作オペラの中で、他人が作曲したアリアをはめ込む等しという事さえあった。)

さて、ミセス・バッハ作曲家説が、現代、何故これ程物議を醸しているのだろうか?

アラン・パウェル;
いつの時代でも、異なる説が現れると、自分の身が脅かされると感じる人がいるものだ。
特に女性が関わる問題においては、そういう事がままある。

ジョン・バット;
今もそうだが、女性が男性と同じように創造的であるという事を認めたがらない人が大勢いた。多くの女性は能力を発揮する機会を与えられなかっただけなのに。
それらの人にとっては、自分の宗教が冒涜されたかのように感じられたのだろう。特に音楽は宗教と近い性格がある。

持っている手書き譜がバッハ作でないとなったら価値が下がる、と懸念するコレクターや団体もいるだろう。

マーティンは、科学的な裏付けを求めて、文書鑑定の専門家ハイディ・ハラルソンとライプチヒで落ち合った。
しかし、ライプチヒのバッハ資料財団は、2人に資料の閲覧を認めず、インタビューにも応じなかった。

マーティン;
トッカータとフーガ二短調はバッハの最有名曲の1つだが、今では、バッハ専門家の多くが、バッハの弟子による作品だと見做している。
(ヨハン・ぺーター・ケルナー(1705-72)説。)
この説は認められつつあるのに、ミセス・バッハ作曲家説が異端視されるのは何故か?

サリー・ビーミッシュ;
私自身、母親であり作曲家だが、作曲という仕事は外科医や電気技師と同様に男性の職業と考えられがちだ。
バッハ1族の家系譜からは女性が消されている。
(バッハの家系には50人もの作曲家がいて、その頂点が大バッハなのだ。)

バッハ伝記は、没後52年も経った1802年、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの話を聴いてニコラウス・フォルケルが書いた。
エマヌエルは謂わば大バッハのスポークスマンだったのだ。

アラン;
家族や友人によって書かれたものは疑問を以って読まなければならない。
その裏に隠された真実を探さなくてはいけない。
(ベートーヴェンの伝記を書いたアントン・シンドラーは、晩年の押し掛け秘書だった人物だが、彼の書いた伝記も自分に都合のよい改竄が多数ある事が判っている。)

18世紀始めの家庭生活に詳しい歴史研究家メラニー・ウンゼルト;
19世紀(というロマン主義の時代)を通して、バッハ作品は全てバッハという1人の天才が書いたと信じられてきた。
時が経つにつれ、彼の周囲にいた人がやった事も、全てバッハがやった事という事になった。
周囲の人々の存在は忘れ去られてしまった。
(ルネサンス,バロック期には、画家の工房でも同じ事が多々あった。日本でもあった。)

~続く~

~続き~

マーティンは、バッハのワイマール時代の手書き楽譜に、部分的ながら、アンナの筆跡を発見した。鑑定家のハイディもアンナの筆跡と認めた。
それは、1713年に書かれた《四声の無限カノン》とアリア《すべては神とともに》で、後者は2005年にワイマールのアンナ・アマリア図書館から発見された。

バッハとアンナの人生、特にその接点に目を移すと、
1713年という年には、28歳のバッハはワイマール公国のウィルヘルム・エルンストの下で宮廷オルガニストとして活動していた。
エルンスト侯52歳の誕生日、各地から数多くの人が招かれた。
当時12歳のアンナが、その折り、両親に連れられてここに来た可能性がある。

バッハ研究者達は、バッハがアンナと初めて会ったのは1720年のケーテン、アンナ20歳の時だったとしている。
1713年のバッハ手書き譜から部分的にアンナの筆跡が見つかったのは、この説と矛盾する。
アンナとバッハの関係は、我々が考えてきたよりずっと前から始まっていたという事になる。

18世紀初め、そのような高度な音楽教育を年若い女性(この場合12歳)が果たして受ける事ができたろうか?

メラニー;
当時の人々はあらゆる伝手を使って最高の教育を子供に受けさせようとした。
学校以外に、家での個人指導というスタイルもあった。
女子は、特に家で教育を受ける事が多かった。教師は親族であったり、家庭教師であったり。
但し、作曲ができるようになる為には、簡単な教育では済まない。
アンナが歌手になる為の訓練を受けていたのは確かだから、作曲の教育を受けていたとしてもおかしくない。
(バッハ家がそうだったように、アンナのヴィルケ家も音楽家の家系だったから、その可能性はかなり高い筈。しかし、ヴィルケ家が音楽家の家系だった事は、重要なのに、あまり言う人がいない。)

イェルク・ハンセン;
アンナが12歳で作曲をしたとしても驚く事はない。

更に、アンナがバッハの生徒だった可能性を強く示唆する文書も残っている。
それはオルガン作品の楽譜の表紙で、当時10歳代だったアンナの直筆文字でバッハの名前が書いてある。


1717年、バッハはケーテン侯レオポルト(1694-1728)の宮廷に移りたいとエルンスト公に願い出たが、許されず、バッハは何と投獄されさえした。
しかし、これはすぐに解決、バッハはケーテンで宮廷楽長の職に就く。
この後、1720年、20歳になったアンナは、バッハが働くこの職場で歌手の仕事を得る。

メラニー;
アンナはケーテンのバッハ家と伴に暮らし、バッハの日々の音楽活動に加わったと考えていいだろう。

マーティン;
それを示唆する文書もある。
前掲の通り、「ウィルヘルム・フリーデマンのための音楽帳」(1720)の楽譜に書かれた文字はアンナの筆跡と一致している。ハイディも確認。
つまり、バッハの前妻の長男の音楽教育にアンナは関わっていたのである。

アンナはケーテンに来る前、既に世の評価を受けていた。
ケーテンの宮廷音楽家の中で並外れて高い給与を受けていた事がそれを物語る。宮廷音楽家達の中で20歳のアンナが2番目の高給取りだったのだ!
有能な歌手が作曲家等より高給の事はままある事だ。

さて、チェコのカールスパートには温泉があり、富裕層のパーティ等もよく開かれ、貴人や有名人等多くの人達が集まった。
1720年、ケーテンのレオポルト王子の一行の中には、バッハもいた。
バッハは数人の音楽家を同伴した。アンナがその中にいた確証は得られていないが、パーティの場で歌手が歌うのはおかしくない。

そして、そのカールスパートから帰ると、バッハの妻のマリア・バルバラ(1684-1720)が亡くなっており、既に埋葬さえされていた。
死因は死亡証明書に記載がなく、不明。彼女は墓もなく、埋葬場所は特定されず、慰霊碑が残るのみ。

メラニー;
墓地に埋葬されていないという事は、死ぬ前に都合の悪い事が起きた事を示している。

マーティン;
次男のカール・フィリップ・エマヌエルによれば、バッハはカールスパートから自宅に帰って初めて妻の死を知ったとの事だ。
不思議な事である。
バルバラは死の2年前に子供を亡くしていた為気落ちしていた。
鬱状態にいるところへ、バッハとアンナの関係の知らせがもたらされ、自殺に至った事も考えられなくはない。

その1年半後の1721年、バッハはアンナと結婚する。バッハ36歳、アンナ20歳。16歳の年齢差で、バルバラの子が3人いた。(7人産んだが4人亡くなっていた。)
若く音楽の才能にも優れたアンナは、宮廷楽長である夫の助けを様々に果たしただろう。

だが、レオポルト王子の婚約者フリーデリケ・ヘンリエッテ(1702-23)の登場で、生活は一変する事になる。
王女は宮廷楽団への援助を突然打ち切ったのだ。
王女が音楽嫌いだったとバッハは表向き言っているが、音楽にあれ程傾倒していたレオポルトである、別の理由が隠されていたかもしれない。


バッハは他の仕事を探さざるを得ない。
バッハはライプチヒの聖トマス教会のカントル(教会音楽家)職に応募した。

カントルは、教会の付属学校でラテン語と音楽を教える教師の職だった。
バッハの仕事の主な役割は、実態は、寄宿学校の寮長のようなものだった。
ライプチヒでは女性は舞台に立つ事が許されず、歌手として高給を取っていたアンナは、生活を維持する上で困惑しただろう。
聖トマス教会のカントルは、加えて、ライブツィヒ市の音楽監督も果たさねばならなかった。

忙しい中、1723~42年の間に、アンナは13人子供を生んだ。内、成長したのは6人のみ。
子沢山であった事を、彼女が作曲家でなかった理由と考える人達がいる、そんな時間等なかった筈だ、と。
しかし、カントルの家には複数の使用人がいたし、何よりアンナの才能は秀でていた。

ライプチヒ時代、バッハは多くの作品を生んだ。
アンナも手伝い、家族で工房的な仕事をして切り盛りしていたのだろう。
妻アンナが曲を書き夫のバッハが仕上げをするというスタイルがあった事も充分に考えられる。

《ゴールドベルク変奏曲》のテーマとなったアリアを誰が書いたかは判っていない。
遺されている楽譜はアンナの直筆である。
始めと終わりがアリアという構成の曲は他にない。
アリアを妻が書き、間の長い変奏曲を夫が書いたという事も考えられる。

ルース・タトロー;
確かに《ゴールドベルク変奏曲》のアリアをアンナが書いた可能性はある。
型通りでシンプルなものなので、彼女が見習いとして作曲を学んでいたのだとすれば、このくらいの事はできたかもしれない。

つまり、保守的な立場のルースは、アンナが作曲家である事は認めていない、その為の高度な教育を受けたという事も認めていない。バッハの作品の1部がアンナによって書かれた等到底あり得ない、という考えが発言の背後にある。

それに対し、マーティンの主張は、無伴奏チェロ組曲の大部分もアンナ作だとしている訳で、対立と論争を惹き起した。

サリー;
18世紀当時、女性の作曲家は他にもいたに違いない。
それらは皆夫の作品として発表された可能性が強い。

マーティン;
無伴奏チェロ組曲についてもバッハ直筆の楽譜は遺されていない。現在存在するものの1つがアンナ筆のものだ。
最近になって、バッハ家の友人シュヴァンベルクが無伴奏チェロ組曲の表紙にアンナの名前を書いているのが発見された、フランス語で「ミセス・バッハによって書かれた(エクリール)」と。
これは、アンナが無伴奏チェロ組曲を作曲した説の裏付けとなる筈だ。

対して、ルース;
それは表紙の下の方に小さく書かれているだけだ。
同じ表紙の上部には、シュヴァンベルクによって大きく「バッハ作曲(コンポーゼ)」と2ヶ所に書かれているではないか。それを無視してはいけない。
また、当時の単語辞典によると、「エクリール」という言葉には「作曲する」という意味はなかった。ただ「書く」事、「書き写す」事を示す単語でしかない。
現代のフランス語で古い文書を理解いようとするのは誤りだ。

更に、マーティン;
楽譜に書かれている「コンポーゼ」という言葉は、「作曲する」ではなく、「組み立てる」という意味だ。
私は、パリ国立高等音楽院に確認し、「エクリール」が作曲という意味を持っていると理解している。

ハイディ;
文書鑑定の立場からすると、無伴奏チェロ組曲の作者はアンナであって、バッハではないと思う。

(無伴奏チェロ組曲の問題については、これ以上番組内で突き詰められていない。)

~続く~

~続き~

次に、バッハの視力の問題に移る。

ダンディー大学(スコットランド)の解剖学人物特定センターは、現代の科学・医学を集積し、戦死者の特定や有名人の顔の復元をする事で知られている。
キャロライン・ウィルキンソン博士がバッハの顔の復元にトライした。

キャロライン;
この仕事から、その人物の生活についても多くの事が判る。
瞼が腫れ上がっているのは、眼の手術を何回も受けていた証拠だ。
それが元で亡くなった可能性もある。

マーティン;
バッハの視力はかなり若い頃から悪化し始め、1740年には非常に悪くなっていた。
誰かが楽譜を代わりに書かなくてはならない。

高名なミサ曲ロ短調が書かれた頃、バッハは殆ど視力を失っていた。
バッハの音楽人生の集大成でもあるミサ曲ロ短調、その高度な音楽を、口述によって楽譜に書き起こすとしたら、非常に高い音楽技能・素養がなくてはならない。
それができたという事は、作曲もできたという事をサジェストする。

視力を失ったバッハに、署名はできたのだろうか?

ハイディ;
1720年の署名は、途切れずすらすらと流れるように筆記体で書かれている。
1748年の署名も非常に滑らかに書かれているが、視力を殆どなくしていたバッハには困難だ。
眼の見えない人は、線に沿って真っ直ぐに書く事ができない。これ迄の視力障害と筆跡に関する研究でそれが判った。
1748年の署名は真っ直ぐ書かれてもいる。
(バッハ以外の人物が代筆をしたと推測するのが妥当だろう。)

バッハの署名として公的に認められているものを調べると、文字の形の異なるものがある。
まず、バッハのサインの正本を確定する必要があるが、それはケーテンの聖アグネス教会の記録簿(原本)から見つけられた。
1719~28年の記録で、懺悔に来た人達の署名が記されている。
「宮廷楽長バッハ」とそこには署名がある。
それ以前、例えば、1713年の署名と1720年のそれを比較すると、頭の大文字のBの形が違う。1748年の署名のBも違う。
バッハの楽譜に書かれた署名が、バッハ本人の手によるものでない可能性が出てきた。
検証し直す必要がある。


マーティンは、ライブツィヒ市庁舎から、アンナ直筆の文書を発見した。
1750年に夫バッハが亡くなった後、彼女が子供達の扶養手当を求めて、市当局に送った嘆願書である。
(あれだけ活躍したバッハが、妻と子に資産を遺さなかったのだろうか?これも奇妙だ。)
それはともかく、これは、アンナの筆跡の正本の1つとなった。

その後、成長した息子達は新天地を求めて、ライブツィヒを離れていった。
見捨てられたアンナは、死ぬ迄市当局の援助を受けていた。
そして、1760年にアンナも没。ライプツィヒの聖ヨハネ教会の墓地に葬られた。
死亡登録簿には、「物乞いの女性、アンナ・マグダレーナ59歳、聖トマス教会附属学校のカントル、故ヨハン・セバスティアン・バッハ氏の妻」と記されている。

その後成功したバッハの年長の息子達は、父バッハの功績を称えた。しかし、継母アンナについては一切語っていない。

マーティン;
不思議な事だが、バッハがアンナに宛てて書かれた手紙が、1つも残っていない。日記もない。
重要なものが何故保存されずに処分されたのか、原因は判らない。
1730年代中頃に描かれたアンナの肖像画も失われている。
アンナにまつわる歴史を誰かが意図的に消したとしか思えない。
他の作曲家では、日記は遺されている。
肖像画のような貴重なものが無くなってしまったのはヘンだ。


アイゼナハの「バッハの家」博物館に保管されているバッハ自筆譜の原本、ハイディとマーティンはこれを見せてもらう事ができた。
バッハの筆跡とアンナの筆跡を比較する上で重要な部分については、顕微鏡撮影も許された。

イェルク館長;
この調査によって、譜面に引かれた五線もバッハ自身によると判った。新発見だ。
節約の為、バッハは自身で五線を引いたようだ。
バロック時代には、演奏する人、作曲する人、楽譜を書き写す人、これらが専門職として分離されていたと考えるのは誤りだ。そんな区分けはなかった。

ハイディ;
ルネサンス~バロックの画家にとっての工房のように、作曲家もチームに支えられていたのだ。
楽譜の書き写し、それが専門職の仕事であるなら、形式通りに行われる筈だ。
しかし、今回調べた楽譜には、あるべき要素が欠落していたり、メモが書かれていたりした。

前掲のアリア《すべては神とともに》(1713)のオリジナル譜の閲覧が、遂にアンナ・アマリア図書館から許された。
マーティンは、これ迄コピーでこの調査をしてきた。
原本を調べる事で、筆跡だけでなく、楽譜に使われた紙の鑑定から作曲年代の割り出しもできる。
文書の中に、重ね書きされている所が見つかった。インクの色が茶と黒で違うのでそれが判った。
つまり、この楽譜に複数の人間の関与があったという事だ。
この楽譜はバッハ自筆として間違いないものだが、アンナによって書かれた部分も特定できた。
つまり、アンナは12歳の時、バッハの側にいたという事になる。

ハーバード大学には、この調査において重要な文書が保管されていた。
これも前掲の《4声の無限カノン》、その原本である。1713年の日付がある。
この楽譜と文書はバッハの筆跡ではない。
文書中にバッハの署名があると主張する人もいるが、脈絡からしてそれは署名として書かれたものではなさそうだ。
マーティンは、この楽譜がアンナの直筆であると見ている。
だとすると、《すべては神とともに》でもそう判断されたように、アンナとバッハは従来説よりもずっと長く関係があった事が証明される。
日付が間違っているのだろうか?
あるいは後になって書き加えられたか?
しかし、ハイディの鑑定では、日付と楽譜は同じタイミングで書かれた。文書部分と楽譜はインクが同じ茶色系で、筆跡も一致している。
バッハ作品において、アンナの直筆楽譜が1713年に存在したという事は、バッハとアンナの関係がアンナ12歳の時既に始まっていたという事で、従来の20歳説は引っくり返される。

マーティン;
18~19世紀にかけて、作曲という創作行為における女性の関わりについて、歴史を見直す必要が出てきた。
女性の作曲家の存在を認める必要がある。
アンナ・マグダレーナの功績も認められてしかるべきだ。


理論の組み立てにはまだ推理部分が多いように感じられるが、これから次第に立証されていく事だろう。
その時バッハ像は、これ迄のそれと相当に違ったものになっていそうである。


ディレクター アレックス・マッコール
原作 マーティン・ジャービス
脚本 ロバート・ビーダム
撮影 ハンス=ペーター・エカート,ダグラス・キャンベル
編集 リチャード・ヴィント

受賞 ニューヨーク・フェスティヴァル芸術部門金賞

2014年/イギリス

国内の重力値の基準 約40年ぶりに改定

国内の重力値の基準 約40年ぶりに改定
3月20日 4時34分
ものの重さや土地の標高などを決める際に使われる国内の重力値の基準が、最新のデータなどをもとに、およそ40年ぶりに改定されました。新たな基準では、広い範囲で重力値が小さくなり、大人では髪の毛数本分ほど体重が軽くなる変化になるということです。
ものの重さや標高などは重力の大きさによって変わり、例えば、北海道と沖縄とを比べると、北海道がおよそ0.15%重力が大きくなり、同じものでもその分重くなるため、国は、どこでも同じ重さとなるように、全国の263の地点で基準となる重力値を定めています。

国土地理院は、15年前から去年にかけて最新の機器を使った精密な測定によるデータを基に、この重力値の基準をおよそ40年ぶりに更新しました。

それによりますと、北海道から西日本の広い範囲でこれまでより重力値が小さくなった一方、東北や熊本県では6年前の巨大地震や去年の熊本地震で地盤が沈下した影響で大きくなりました。

体重60キロの人でみると、重力値が0.1ミリガル小さくなった新潟県佐渡市ではこれまでと比べて1000分の6グラム軽くなる一方、岩手県宮古市では0.07ミリガル大きくなって1000分の4グラム重くなることに相当するということです。

新たな基準は、今後、精密な重さの測定などのほか、活断層など地下の構造を調べる際にも活用されるということです。
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