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闇の者たち(裁き)

これまで人類を導き、宗教を作ってきた者たちのほとんどは、人格的障害者と言ってよいような者ばかりでした。人々は彼らの肉体的・表面的なレベルの見せ掛けの徳の高さにだまされ、誤った教えについて疑問をもつことがなかったのです。これらの輩は、過去に犯した多くの過ちによって、幽体もしくは原因体がすでに人間の形を取れなくなってしまった者たちも多かったのです。この者たちの中には苦行・瞑想の努力によって、解脱に至る者まであらわれましたが、心を浄化することはなく、三昧(サマディー)からもどると、カルマ(業)で汚れた幽体・原因体による苦から逃れることは出来なかったのです。

すなわち身体意識を離れた三昧(サマディー)でだけ、苦から逃れることが出来たのです。それは、彼らが心を浄化することを怠り、瞑想により、解脱のみを求めたことと無縁ではありません。解脱は、肉体への生まれかわりからの離脱を可能にしますが、心を清めないかぎり苦から逃れる術はありません。ところが愚かにも、この者たちは解脱を得た者は完全に清らかであり、もはやいかなる罪も解脱者には影を落とすことすら有り得ないという信じがたい妄想に取り付かれたのです。要するに解脱者は、神をも越える完全な者であり、何をしても実は何もしていないのと同様で、いかなる罪悪も解脱者には無縁であると本気で思うほど愚かでした。この愚かさが、さらなるカルマを彼らが生み出す元となり、現実に身体がすべて滅び去る、いわゆる彼らの目標とする究極の解脱こそが、真の意味で救いとなってしまったのです。

彼らは、身体を不浄とし、自己(アートマン)のみを真実としたために、かえって身体、そして心を浄化することを軽んじてしまったのです。心の浄化を軽んじ、解脱のみが目標となれば、性欲は大敵となります。実に性を正しく導くことこそが、心を浄化するただひとつの方法であるにもかかわらずです。
これらの愚か者たちは宗教を創始し、人々に性が罪悪であることを植え付けました。彼ら自身が性を否定することで自らの心の浄化を否定したのみならず、人類にいわば暗黙に強制したのです。性を否定すれば野心が育ちます。
彼らの全員が、暴力的で権力欲の塊のような者たちであったのは、このためです。

宗教は地球をメチャメチャにしてしまいました。宗教で教えることは性の否定・禁欲であるか、または神殿での売春かのいずれかになってしまいました。神殿売春を神聖なことであると教える悪霊か、完全な禁欲が人生の究極の目標に不可欠であると教えるハイアラーキーかのいずれかを人類は選ばなければならなくなってしまったのです。そしてこのどちらもが誤りなのです。真の幸福は性の成熟と不可分に結びついています。夫婦の愛こそが、すべての愛の基本なのです。宗教は真理を、くだらない神話と教義で覆い隠してしまいました。

(竹下 雅敏)
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脚本家 橋本忍さん死去 「羅生門」「七人の侍」手がける

脚本家 橋本忍さん死去 「羅生門」「七人の侍」手がける
2018年7月20日 6時50分

戦後の日本映画を代表する脚本家で、「羅生門」や「七人の侍」など数々の名作を手がけた橋本忍さんが亡くなりました。100歳でした。

橋本忍さんは大正7年、兵庫県に生まれ、肺結核にかかって闘病生活を送る中、映画のシナリオに興味を持ち、伊丹万作監督のもとで映画の脚本を学びました。

デビュー作は黒澤明監督と共同で執筆した「羅生門」で、昭和25年に公開されたあと翌年のベネチア国際映画祭で日本映画としては初めて最優秀賞の金獅子賞を受賞しました。

その後も、海外の映画祭で賞を受賞した「生きる」や「七人の侍」など数々の黒沢作品の脚本を手がけ、脚本家としての地位を確立していきました。

また、「砂の器」など作家・松本清張さんの作品の映画化や、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」、森谷司郎監督の「日本沈没」「八甲田山」など映画史に残る作品を手がけ、日本映画の黄金期を築きました。

一方、映画監督としても活躍し、自身が脚本も手がけた昭和34年の「私は貝になりたい」は無実の罪で戦犯に仕立てられた善良な散髪屋の半生を描き、大きな反響を呼びました。

平成3年には勲四等旭日小綬章を受章し、平成12年にはシナリオなどの資料を集めた橋本忍記念館が、出身地の兵庫県市川町に開館しました。

橋本さんは90歳をすぎてからも現役の脚本家として活躍し、平成24年ごろ脳梗塞を発症したあと、自宅で療養を続けていましたが、関係者によりますと、肺炎のため19日東京都内の自宅で亡くなりました。

本のイノベーション(技術革新)を考える

本のイノベーション(技術革新)を考える
ひさびさのブログです。

facebookでもいいかな〜と思ったのですが、ちょっと長くなりそうだったのでブログに書き留めて起きます。
僕は山中湖情報創造館という図書館機能を有する施設の指定管理者館長をしています。さぞや「本が好き」な人なのだろう…と、思われがちですが、実は…本は嫌いではないが、手放しで好きなわけでもない。というのが本当のところです。昨今「電子書籍」といった新しいカタチの本があるから、それはイノベーション(技術革新)だろう〜と言われる人もいらっしゃいますので、まずは「電子書籍」について


○ 電子書籍は本のイノベーションではないのか?

 ひとつの見方でいえば、電子書籍端末やスマートフォンやタブレット、そしてパソコンを使って読む電子書籍は、技術革新だと思います。ただ、正直なところ「紙の本の模造品」的な電子書籍なのです。かつて本がデジタル化される…という時代をみてきたものとしては、そこに「ハイパーカード」や、それをプラットフォームにした「エキスパンド・ブック」といった、紙の本ではできない「デジタル」だからこそ表現可能な本のスタイルがありました。文字や図版だけでなく、動画や音声、3Dデータなどを含めたコンテンツです。エキスパンドブックはその後ハイパーカードを離れ、独自のプラットホームを持つに至りましたが、残念なことに今日当時の電子出版物さえ見ることはできなくなりました。また、Apple社のiBooks AuthorやAdobe社のInDesignなども、実はマルチメディアコンテンツの本を作るためのツールとして登場していましたが、残念なくらい動画や音声など紙の本を超える本は…ごくたまにあるくらいです。電子書籍フォーマットであるePUB(イーパブ)も、そのフォーマットには規格されているにもかかわらず、デジタルならではの表現をもった本はメジャーな出版物としては登場していません。そうこうしているうちに、紙の本と同様の電子書籍、電子コミックが登場し、それこそがデジタルによる本の技術革新…というのは、少し寂しい気もしています。いまのところ「デジタルでなければ表現できない本のスタイル」には至っていない…と、僕は思っています。


○ 知識に重さはないはずなのに、本になったとたんに重さを感じる。

 本に対する不満のひとつに、その[重さ]があります。紙を使っているのだから重たいのはあたりまえだろう!って怒られそうですし、一方の業界からは、だったら電子書籍端末に電子書籍をいれれば、何冊いれたって重さは増えない!っていわれそうです…が、では「紙の本は軽量化に取り組んだか」といえば、それはほとんどありません。判型(本の大きさ)こそ、単行本や新書、文庫版といったあるていの規格サイズにこそなりましたら、ページに使っている紙、表紙、本全体の軽量化に取り組んだということは耳にしていません。これはとりもなおさず、輸送費や倉庫の重量に耐えられる…といったことにも繋がるので、歓迎すべきことだとおもいますし、個人の本好きが本の重さでアパートの二階の床が抜けた…というニュースも、ごくたまにですが耳にします。先日も地元中学生のキャリア教育の一環として図書館の仕事を体験してもらいましたが、その時の感想に「意外と重労働なんですね」とも言われてしましました。
 本に書かれている文字も写真も図も、そこから読み解ける知識にも物理的な「重さ」はありません。しかしそれが「本」になったとたんに重さを持ち、それが当たり前として軽量化に取り組むこともなく今日に至ったことは、すこしだけ悲しく思っているのです。


○ 本はこの百数十年、記録容量に大きな変化はない。

 パソコンの世界には「フロッピーディスク」という記憶媒体があった。さらにその前のマイコンの時代にはカセットテープも使っていたこともあった。フロッピーディスクには8インチ、5インチ、そしてプラスチックケースに入った3.5インチがあり、比較的3.5インチフロッピーディスクは、2HD 1.44MB(メガバイト)の時代が長く続いた。同時に大容量には、MO(エムオー)640MB やZIP(ジップ)750MBなどが登場したり、CD-R 740MB などの書き込み可能なディスクも登場してきた。
 そうこうしているうちに、デジタルカメラなどの登場により、磁気記憶装置からシリコンチップへの記憶媒体が登場し、昨今ではUSBメモリやSDカードなどで、8GB、16GB、32GB、64GB、128GBなど…3.5FDの時代からは、恐ろしいほどの大容量化が進んだ。しかも、しかもである。大きさは1/10なんてもんじゃない。

 例えば、3.5インチフロッピーディスクの容量を縦横1.2cmの1.44㎠と仮定すると、1GBは縦横32cmの面積=1,024㎠になる。USBメモリやSDカードの4GBや8GB、16GBなどは、この1,024㎠が4面、8面、16面もあることになる。しかもこれらの物理的サイズの比較をすると左から3.5インチFD、SDカード、microSDカードである。デジタル系の業界がこの数十年間にこれだけの記録容量を激変させている一方で、紙の本の記録容量には…百数十年間大きな変化は、無い。

○ 本を読むには時間がかかる

 本好きの人には当たり前に聞こえるかもしれない。だが本を読まない人…出版マーケティング的には「未開拓の潜在顧客」の多くは、本を読まない理由に「読む時間がないから」と答えている。それに対して本を作る側はどうしているだろうか。短時間で読める本を作る努力や創意工夫をしているのだろうか? 例えばデッサンや絵画、彫刻・彫塑のジャンルでは、「まずは大まかに全体像を捉え」「それから徐々に細部を描き/作り」「最後は丁寧にディティールを仕上げる」くらいの段階を踏む。中にはいきなり材木から指先を削り出す彫刻家やいきなり細部を描き出す画家もいるにはいるが、ごく希少な存在である。このように読書においても、一度ではなく、まずは全体像を把握、徐々に細部を読み、最後は一字一句を読んでいく…ような段階的読書方法だって有ると思っている。だが、残念なことに、そのような読書スタイルに対応した出版物は、みあたらない。(ビジネス書系にはあるかもしれないが)
 本のイノベーションのタネとして「読者に時間をかけずに本を読むための工夫」みたいなところに、技術革新はあるかもしれない…と、思っている。


○ 本を読んでも覚えていられない(忘れちゃう!)

 時間の無い中で、読書の時間を作り、一字一句丁寧に読むことができたとしよう。問題はその次だ。「読んだ内容をすぐに忘れてしまう」のだ。これは読者側の能力の問題…といってしまえば、それまでだが、もう一方で「記憶に残らない本を作っている」という感覚を持って欲しい。一度読んだら忘れない本。書いて有る内容…いやむしろ著者が伝えたい内容を読者が忘れないようにする工夫。そんなところに、本のイノベーションのネタが埋まっていると思う。
 場合によっては、読み終えても登場人物の…いや主人公の名前すら覚えていないこともある。読み終えたはずの本の内容を誰かに伝えたくても、読み終えたことは覚えていてもどんな内容だったかを人に説明できるほど記憶していない…のだ。
 人の記憶は不確かな一方で、とんでもない瞬間を記憶していることがある。雑誌のページをぺらぺらめくりながら、読み飛ばしたページの右上にあった絵が何か気になったのだけど、そのページを探せない…みたいなことが、僕にはある。パラパラとめくっているだけのページのはずなのに、特定の文字(キーワード)だけが目に入って記憶しているのだけれど、そのページを探すのにこれまた時間がかかったりもする。ぼくだけの症状なのか、他の人にもあるのかはしれないけれど、『ぱらぱらとページをめくるだけでも記憶に残る編集方法』がありはしないだろうか。
 また、記憶の濃淡/強弱…ここだけは覚えて欲しい。みたいな編集方法もありそうに思うのだ。


○ 僕たちは何のために読書をするのか。

 本を読み終えたことだけは覚えているけれど、主人公の名前も登場人物の名前も、いつ・どこで・だれが・なにを・どのように・どうした…いわゆる5W1Hを他人に伝えられるほど、読書をしても記憶しているわけでは無い。村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだ人は、主人公の名前を言えるか自問してみるといい。
 さて、一方で読書は学びのためにする…ということも言える。知識や他人の経験を追体験するのもまた読書の役割だと思う。ただ本当に著者が伝えたい知識が、ちゃんと伝達できているのだろうか?いや、そもそも「知識」とは何かという定義すらあいまいではないか。いやいや世の中には「知識工学」といものがあってだな〜…と、あれやこれや。
 読了後、内容を覚えていないのはしかたがないと譲っても、知識として何が得られたのか…は、重要な問題だ。これはいわゆる「費用対効果」。本を買うにしても、仮に無料の図書館で借りるにしても交通費や時間などの労力をかけるわけだから、それに見合うだけの見返りがなければならない。
 一字一句暗記しなくてもいい、内容の5W1Hを誰かに伝えられなくてもいい。だけど『読んだことで知識を得る』ことができなければ、もう本などは買わない。
 そういう意味で、読了後『知識を得られる本』『得られた知識を忘れない本』そういう本を著者は書くべきだと思うし、編集し出版する側も、そこに本のイノベーションのネタが眠っていることを考えて欲しいと思っている。


あとがき

 実はなぜこんなことを書いたかといえば、とある人から「丸山さんも本を出したら〜」と言われたからなのだ。常日頃から「今の本には他の産業のようなイノベーションが無い」と言っているだけに、自分で出す本が、まったくのイノベーションの無い本だったら、もう誰も丸山の言葉に耳を貸さなくなるだろう。もし僕が書く本があるとしたら、少しでも従来の本とは違う「イノベーティブ」な部分を持っている本にしたい…と、思い立ったので、こんなことを書き出してみた。

 もちろん、印刷や製本、編集の製造サイドにおいては、版木から活字、写植を経てDTPへと大きな変化があったし、それにより生まれて没した産業があることも知っている(活字産業は写植産業によって消え、写植産業はDTPの登場によって消えました)。

 ここまで読んでいただいた人がいらっしゃったら、深く感謝いたします。
 本に対する愛と憎しみと屈折した思いをもちながら、この情報や知識や物語の世界に、まだしばらくはいる予定です。

ありがとうございました。

ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」

●ガブリエル×國分 哲学者が語る民主主義の「限界」

≪哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談
日々のニュースで当たり前のように政治や経済の危機が語られる今、民主主義は「危機」の解決に役に立つのか。もはや民主主義こそ問題なのではないか――。著書「なぜ世界は存在しないのか」(講談社選書メチエ)がベストセラーになっているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルさんが来日し、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールで6月12日、哲学者の國分功一郎さんと対談した。「危機」の時代に、改めて歴史をさかのぼり、民主主義の原理を見直した議論では、「民主主義と国民国家は両立しない」「主権という考え方は怪しい」など、ラディカルな発言が飛び出した。

対談は、住民運動への参加経験などから議会中心の既存の民主主義観を批判してきた國分さんが事前に送った「手紙」による問題提起を受け、ガブリエル氏が講演する形でスタートした。

通訳は斎藤幸平・大阪市立大学准教授、聞き手・司会は朝日新聞文化くらし報道部の高久潤記者が務めた。対談は、本の著者を招いて講演などをしてもらう「作家LIVE」(朝日新聞社主催)の一環で、会場には定員を大きく上回る約900人から応募があり、抽選で当選した約200人が来場。2時間半に及んだ当日の議論の全容を、2万5千字超で詳報する。

■國分さんからの手紙  
対談に先立ち、國分さんは事前にガブリエルさんに問題提起のため、民主主義をめぐる四つの質問を手紙で送っていた。ガブリエル氏の講演はこの質問を踏まえて行われた。   
   ◇
①実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
②立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
③主権に統治は可能でしょうか。主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
④現代政治が主権の限界に直面する一方で、主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか    
   ◇  
手紙の中で國分さんは、2013年に都の道路建設計画の見直しを求める住民運動に参加した自身の経験に触れ、「道路を建設するにあたって、建設現場に住む人びとからいかなる許可も取る必要がない」とし、「日本の行政には万能とも言うべき権力」がある、と指摘。近代の民主主義において、主権は「伝統的に立法権として定義されてきた」が、主権者である民衆が行政の決定に直接関わることができない中、それは民主的と言い得るか、と問題提起した。

公文書改ざん問題でも改めて注目を集める行政権力の強大化は、国レベルでも当てはまる。國分さんは安倍政権が2015年、閣議決定で日本国憲法第9条の解釈を変更したことに言及。その反対運動の中で注目されたのが立憲主義を、「いかなる政治権力も制約を受けるという原則」と説明し、制約を受ける側である安倍政権が「そのルールの解釈を変更」したことを批判した。だが考えるべき問題はその先にある。では「憲法は民主主義的な権力をどこまで制約できるのか」と問いかけた。

また英国の欧州連合(EU)離脱を決めた国民投票など世界政治の潮流にも触れ、「主権を求める動きが高まっている」と診断した上で、「主権(民主的な議会)による統治は可能か」「主権を求める動きが高まる状況をどう捉えればよいか」との質問も投げかけた。

■マルクス・ガブリエル氏の基調講演「危機に瀕する民主主義」  
日本の哲学者と交流を持てるのを楽しみにしていました。きょうこれから國分さんからの手紙との関連で民主主義の危機について論じますが、二つのパートにわけて話を進めようと思います。最初に論じたいのは、民主主義の本質に関する問題、つまり民主主義とは何かという問いです。それを踏まえて後半では、民主主義は今、社会システムの中で実際にどのような形で実施されているのかについて話します。

そのうえで最後に、民主主義の危機とは、前半で論じるその「本質」と、現在実施されている制度の間にある距離、隔たりから生まれているのだ、ということを指摘したいと思います。

民主主義が誕生した時期として、一般的に二つの時期が語られます。古代ギリシャとフランス革命です。では、なぜこの時期に民主主義が生まれたかを考えてみると、民主主義がある種の「価値」に対応する形で生まれてきたことがわかります。ここでいう「価値」とは「事実」に関するものです。例えば子どもを虐待してはいけないという価値(判断)は、子どもを虐待してはならないという事実に対応しています。同様に民主主義について考えるならば、民主主義の価値は、人間は人間として存在することができるためには、けっして誰にも譲渡できないような諸権利を必ずや必要とする、という事実に対応しているのです。ではどういう権利が必要かというと、人間として充実した意味のある人生を送るための条件、幸せな生活を送る条件を人間は必要としており、こうしたものが権利の内容になります。

これが人権と呼ばれるものですが、人権とは言い換えるならば、人間が人間としての人生、生活を送るために必要な条件です。民主主義とは、こうした人間が人間として存在するための権利を実現することを目指す政治システムということになります。

まずこの単純な話を基礎として、理想的な民主主義の定義について話すことができます。つまり、どのような社会的、経済的、政治的条件のもとでなら人々は充実した生活を送ることができるか、という問いに答えていくことで、理想的な民主主義を定義することができるでしょう。

では実際にはどう定義していくのか。社会学、経済学など様々な学問がその条件を明らかにする役割を果たします。その意味で、民主主義とは、知に――それを知の体系と呼んでもいいでしょう――基づいたシステムということになります。ですから、まず私たちは、自分たちが生きていくために、どういった条件が必要なのかを事実として知る必要がある。民主主義とは知に基づいた統治形式と定義することができます。

古代ギリシャの民主主義がなぜ失敗したのかについて話しましょう。簡単に言えば、その民主主義が「みんなのための」民主主義ではなかったからです。当時は奴隷がいました。奴隷は、民主主義の基本的な理念と矛盾しています。奴隷は奴隷所有者のために働くことを義務付けられており、自分のしたいことを行うことができません。こうしたエリート主義的なシステムでは民主主義は実現しませんでした。

また、フランス革命の後の民主主義の試みも失敗しています。このときは、ナポレオンが目指した民主主義の拡大という試みが帝国主義的な性格を内包していたからです。帝国主義な性格による失敗については、まさに今日の米国の民主主義が失敗していることにも同じようにあてはまるように思います。

ナポレオンのプロジェクトの失敗は、後世同じように繰り返します。そうした試みが失敗したのは、帝国主義的な方法で民主主義を普及させようとすると「みんなのため」という民主主義の基本理念を実現できないからです。要するに他者を十分に理解してこなかったことに由来する問題です。米国は「他者」を理解することを非常に苦手としています。この問題はこの後にも話になると思うので示唆にとどめますが、(ギリシャとフランスの)二つの失敗は、それぞれ(の民主主義)が十分に普遍的なものではなかったということで説明されるでしょう。

さて2番目の問題について話しましょう。現代の民主主義についてです。今の民主主義の危機を考えると、二つの大きな問題があると言えます。

一つ目は、真理と知についての危機です。そして、二つ目が不平等という問題です。二つ目のほうが簡単なので二つ目(の不平等)から話を始めたいと思います。

世界規模でみると、少数の人のみが先ほど言った人権の理念に合致した生活を送ることができています。なぜ少数の人たちがそのような生活を享受できているかというと、残りのものすごく大勢の人たちが、人権の理念に合致しない生活を送っているからです。

これは古代ギリシャとまったく同じような状況で、つまりある種の奴隷制が世界規模でみると生じているのです。ただし、今回の場合は、古代ギリシャのように、国内に大勢の奴隷と一部のエリートがいるというわけではなく、先進国のために途上国の人がTシャツを作っているという状況です。そのため、自分たちのために途上国の大勢の人々が仕事をしているという状況が(利益を享受している少数の人間側に)見えない、言ってみればアウトソーシングをしているような状態になっているのが特徴です。

そうした状態下での民主主義は普遍的ではありません。この状況は帝国主義的な方法でも解決できません。無理やり解決しようとして(民主主義の理念を帝国主義的に)拡張してしまったら、今度はTシャツをつくる人がいなくなってしまうでしょう。つまり現代の民主主義は、世界的な規模での不平等を必要としているのであって、それがすでに大きなものになっており、非常に深刻な問題になっています。

もう一つの問題、つまり真理と知の問題に戻りましょう。私が言おうとしているのは、ポストトゥルースと呼ばれる事態のことです。民主主義のリーダーたちが、科学的な事実について無知な状態にあります。これは大統領のようなトップにいる人たちだけではなく、議会に選ばれている政治家たちも含めて、科学的な事実について完全に無知な状態に陥っています。例えばドイツではいま大麻を合法化するかどうかの議論がなされていますが、議論は事実をしっかり調べないままに、国会でただぺちゃくちゃしゃべっているだけの状態になってしまっている。これは事実に基づいて検討するという態度からかけ離れています。

だからこそ必要なのは科学者たちであり、さらに言えば哲学者たちです。重要な問題については科学者や哲学者に意見を聞く公聴会が必要なのです。もしこうした公聴会なしに様々な決定がなされていくと、無知で自己中心的な政治家が私たちの生活にかかわる重要な決定を勝手にしてしまうことになります。こうした試みが私たちの民主主義を最終的に破壊することになります。

ここにポピュリズムの矛盾が表れていることに注意が必要です。このポピュリズムの状況を変えるには、きちんとした情報が人々に行き届く公共圏を作り出すことが必要です。だからこそ科学と哲学が必要なのです。公共圏を作り出すことができなければ、私たちにはある種の独裁が待ち受けているでしょう。

■ マルクス・ガブリエル×國分功一郎(対談)  
國分功一郎氏:
たくさんの方に来ていただいてうれしく思います。ガブリエルさんにもわざわざ日本に来ていただいた。とてもうれしく思っています。少しだけ全般的な話をしてから、応答に入っていきたいと思います。先ほどこの対談を前に、高久記者から「いま哲学はブームになっていると思いますか」という質問を受けました。確かにガブリエルさんの本がよく売れていて、僕の本もまあまあ売れているのですが(笑)、ちょっとそういうブームがあるのかもしれない。哲学の本が売れる。さらには新聞社主催のイベントでこうして哲学を研究している僕らが話をするとなると、たくさんのお客さんが来て下さる。

ガブリエルさんは今日、民主主義の危機をテーマに話しましたが、なぜ哲学がブームなのか、仮にブームがあるとすると、やはり危機と対応しているからだと思います。はっきり言って人が幸せに暮らしているときは、哲学はいらないんです。古代ギリシャでもやはり危機が起きたときに哲学が起こりました。プラトンがいたアテナイは、腐りきったアテナイだった。ですからいま哲学が求められているのだとしたら、それはやはり何らかの危機があるのだろうと思います。そして、恐らく今日ここに来ている方は、政治に関しての危機に非常に自覚的な方が多いと思います。きょうは、ガブリエルさんはドイツのボン大学の先生なので、ドイツの話も少しうかがいながらそれについて考えていきましょう。というよりも日本と同じ敗戦国としてスタートしたドイツを日本はしばしば比較対象としてきました。その比較は今でも有効だと思います。日本とドイツはどこが似ていてどこが違うのか。ドイツでは民主主義がどう考えられているのか。そうした点についてもおうかがいしたいと思っています。

ではガブリエルさんの講演に応答していきましょう。デモクラシーの本質(ネイチャー)と、デモクラシーがいまいったいどう実行されているかという話を皮切りに、古代ギリシャとフランス革命という例が出されました。強調されていたのはまず「価値」、僕らがどういう価値を民主主義的な価値と思っているのかということです。更に、それはどういう事実に基づいているのかというふうに話が展開され、そこからどういう権利が導き出されるのかというところまで話は及びました。つまり、バリュー(価値)、ファクト(事実)、ライト(権利)がいわば等号で結ばれるような形でガブリエルさんは語られた。哲学はしばしば「自然の発見」によって始まったと言われますが、哲学の役割の一つは、ファクトを発見していくことなのかもしれないと考えました。

さて、ガブリエルさんが依拠された民主主義の価値の中心にあったのは、「平等」だと思います。平等という価値を一番大事なものとして民主主義をとらえているからこそ、古代ギリシャは奴隷がいたからダメだということになる。この平等を考える時、一つ厄介な問題があると思います。先ほどは経済的な平等の話が出ましたが、民主主義における平等という場合には、もう一つ大事な平等があると思います。それは「決定への平等な参加」、つまり「メンバーシップ」の問題です。

言い換えれば、「僕は日本国民だから日本国の政治決定に、他の人と同じように平等に関われるはずだ」という権利の問題でもあります。しかし、いまグローバリゼーション下で問題になっているのは、いったいそのメンバーシップをどう確定できるのかということです。「日本国民に平等に決定権があるべきだ」という主張はとてもいい主張に聞こえる。でもそれは他方では、「外国人は入るべきではない」という主張にもなります。

例えば昨年、フランス大統領選の際、マリーヌ・ルペン(フランスの極右政党の候補)が最後まで残って世界を大変驚かせました。彼女は「フランスのことはフランス人が決めよう」と言っていました。よく事情を知らないでルペンの話を聞いているとけっこういい話に聞こえてしまう。僕はどういう人か知っているから「何を言っているんだ」となるけれど、実のところ、上ずみだけ聞いているととてもいいことを言っているように聞こえるのです。決定権における平等の問題が排除と結びつく場合があるという問題がここにはあります。

僕らは国民国家をもはやこのまま維持できないということは分かっている。でも他方で、誰にでも決定権を与えてよいという考え方にみんなが賛成するかというと、ちょっと疑わしい。ではどうやって政治的決定権を考えるか、平等なメンバーシップの問題をどうガブリエルさんは考えているのでしょうか。

■「価値と知」「メンバーシップ」について  
ガブリエル氏:
二つのパートに分けて、國分さんのコメントに答えます。まずは、「価値と知」という問題。もう一つは「メンバーシップ」の問題になります。一つ目に関していえば、哲学だけがそうした「知」を明らかにする役割を担っているわけではなく、科学全体、社会学とか政治学とか、物理学とか数学とか、こうしたさまざまな学問がすべていっしょになって「知」を生み出しているわけです。(民主主義のための)「知」は、個々の学問分野がばらばらに生み出すことはできません。物理なら物理、政治なら政治、哲学なら哲学、科学はさまざまな法則を発見し、知を生み出しますが、そうしたものが集まることによって我々が必要とする知を獲得することが出来るのであって、こうした共同的な営みを実現していく必要があります。ただ、こうした共同的な営みはいまのところは起きていません。起きるべきだと私は言っています。それによって哲学は民主主義の実現に貢献することができるでしょう。

國分さんは、非常に重要な問題、メンバーシップの問題を提起してくれましたね。この点について完全に同意します。つまり、民主主義の本質というのは、国民国家というものと相いれないということです。国民国家を超えて民主主義が拡張されなくてはならないという発想は、カントが言ったのが有名です。要するに、国民国家というものと民主主義は相いれないものなのです。これはまさに哲学的な洞察で、普遍性という原理からこうした洞察が導かれるわけです。この普遍性原理に基づかない民主主義を実現しようとすると、まさに帝国主義的なやり方になってしまう。まさに(今日の)グローバルなコミュニティーでは、民主主義を実現するためにまったく新しい構造が求められているわけです。

もし国民国家をひたすら維持しようとするならば、多くの国に独裁的なものがうまれるでしょう。他にいくつかの小さな「希望の島」とでも言えるようなものはできるかもしれませんが。なぜかというと私たちが直面している問題を解決することが国民国家ではできないからです。私たちが直面している気候変動であったり、経済的な格差といったりした問題はグローバルな性格を持つものであって、そうしたものに対して、国境を線引きして、ここからこちらは関係ないと線を引いてしまうことはできません。

難民や移民は、民主主義という名の下で自分たちの人権を求める権利を持っているわけです。しかし、そうした問題に対して、現在は彼らの人権を否定してしまうような状態になっています。この問題は非常にグローバルな現象ですが、彼らが求めているのはまさに人権を自分たちのものにするということです。彼らはまさに民主主義者と言えるでしょう。

ただ現在は移民、難民の問題は、ポピュリストたちに利用されていて、ナショナリストのプロパガンダのために利用されてしまっています。私たちがこの状況において選べる道は二つあります。一つは、こうした状況を鑑みて、国民国家を超えた「グローバルなシチズンシップ」を与える民主主義の形式に転換していくこと。二つ目の選択は、まさに人類を破壊してしまうことです。私たちは今(国民国家に基づいた)民主主義の限界に直面しているといえるでしょう。

■国民国家と民主主義  
國分氏:
いまガブリエルさんは非常に強い主張をされたと思います。「国民国家は民主主義と相いれない」というものです。非常に強い主張で、これを僕はどういう風に扱ったらいいかなと聞きながら考えていました。一方でもちろん賛成です。カントの「永遠平和のために」という本がすごいのは、何か世界的なルールを作りましょうと言っているわけじゃないところです。カントは、「ホスピタリティー(歓待)」のルールさえあればいいと言っている。市民が互いに世界を行き交っていれば、自然と世界がよくなる、それ以上のルールを作ってはいけないという。これがカントの面白いところで、これが本当に実現されれば、確かに国民国家は薄まっていって、もしかしたらグローバルなシチズンシップにも近づいていくのかもしれません。「移民、難民は民主主義者なのだ」という主張も非常によく分かります。ある意味で、だからドイツは難民を受け入れる決断をして、まさしくカントが言っていたような「歓待」のルールを実践してきたわけです。

ただ他方で、一足飛びにグローバルなシチズンシップに僕らは行けるのか、とも思います。そこで一つ問題になってくるのは、手紙の中で出した「主権」ということばです。主権というものは非常に扱いが難しい。一方で民主主義は「民衆が主権を行使する」ということを意味します。でも「主権」という概念はやはりどこか怪しくて、本当に自分たちで自分たちのことを統治できるのだろうかという疑いもあるわけです。国民国家という枠を取り払ってしまったときに、いったい主権はどういう形で担われることになるのか。つまり、グローバルなシチズンシップを目指していく中で、主権をどう考えたらいいのだろうか。

というのも、ぼくは「主権」という考え方に懐疑的ですが、今のところ、主権がない政治を思い描けないのです。もしかしたらガブリエルさんは「主権のない政治」みたいなことを考えていますか? 主権についてどういうことを考えているかお聞きしたい。

ガブリエル氏:
私も、(その後に)デリダが議論した「歓待」という発想を支持しています。とはいえ、以下では「主権」というテーマの歴史にさかのぼって考えたいと思います。一番有名なのはトマス・ホッブズですが、ホッブズ自身は主権や民主主義というテーマで論じられることが多いものの、彼自身は民主主義者ではなく、むしろ奴隷を所有しました。彼の哲学、政治理論というのは矛盾を含んでいます。

ですから、私たちは政治と主権というものの関係について考え直す、再考する必要があると思います。私たちが民主主義について考えるとき、しばしば「人民の主権」、自分たちで統治する、人々により多くの権力を与える、というかたちで考えがちですが、民主主義というものは、先ほど説明したように普遍的な価値システムなわけですから、主権という概念とは相いれないものです。

なので、主権という概念はいりません。主権なしに新しく民主主義について考える必要があります。ホッブズの場合は、政治的な共同体を内戦の結果として生まれたものとして理解しています。自然状態では人々は闘争をしてしまうので、それを調停するために社会が生まれたと考えるわけですが、こういう考え方をやめる必要があります。実際、主権が存在しなければ人々は自然状態における内戦状態になってしまう、という実証的な裏付けは、ホッブズの主張にもかかわらず、ないわけです。

むしろ、ホッブズの主権理論は、アメリカの先住民族に対するジェノサイドを正当化する目的で、自然状態を早く乗り越えないと内戦が深刻化してしまう、そのため強い主権が必要だ、という奴隷所有者としてのホッブズの主張と結びつけているわけで、そうしたものを受け入れる必要はないのです。

■民主主義と主権  
國分氏:
もう一つ、非常に強い主張が出されたと思います。先ほどの「国民国家と民主主義は相いれない」というテーゼに加えて、「民主主義と主権の考え方は相いれない」というテーゼですね。これは僕は今の政治理論の最先端の問題だと思います。先日、僕は憲法学者の石川健治先生と憲法について話しましたが、石川先生も主権概念について非常に強い疑問を呈されていました。やはり正面から理論的に考えると、主権という概念には大いに問題があるのです。まやかしがあると言ってもいい。例えばハンナ・アレントは主権の概念をまったく認めない立場でした。僕の専門分野だと、デリダもずっと主権について批判的な考察をしてきました。だから、すごくよく分かる。

ただ主権を要求しなければいけない場面も間違いなくあるということも一応付け加えておきたいと思います。3年前、僕はフランス留学時代の恩師であるエティエンヌ・バリバール先生がいるロンドンの大学に客員研究員として滞在していたんですが、その時、先生の講演会に行って、同じようなことを質問したことがありました。主権概念に問題があるのはよく分かる。しかし主権を要求しなければならない場合もあるのではないか、と。バリバール先生は、「それは『WHEN(いつ)』と『WHERE(どこで)』の問題だ」とおっしゃいました。やはり場合によっては主権を要求しなければならない。

例えば、いま沖縄県で、外国の軍隊の基地が、ものすごくきれいな海を埋め立てて造られています。地元の人の反対の意思があるけれども、本土は基本的に無関心です。僕はしばしば「この国は本当に主権国家なのだろうか」と思います。「基地を造ろうとしている国の『属国』なんじゃないか」と感じるときがある。こういうとき、主権を要求する必要が出てきます。

話を少し展開しましょう。ガブリエルさんの今日の話で印象的なのは、「平等」を非常に大切にされているとともに、「ナレッジ(知)」の重要性を強調されているところだと思います。僕はガブリエルさんに宛てた手紙を、自分が体験した、地元の道路建設をめぐる住民運動から書き起こしました。様々な知識や情報がきちんと共有されない。これは情報公開の問題でもありますが、行政と住民は知識と情報に非対称性があり、住民側からこういう事実があると持っていっても、一方的に「道路をつくる必要がある」と言われてしまう。民主的社会が実現するためには、知識と情報を行政と市民が平等に共有することが非常に重要だと思います。

ただ、ここにパラドックスがあります。ガブリエルさんも政治家の無知について言及されていましたが、そうすると、たとえば専門知識がある人が大臣になるのがよいのだろうかと考えてしまいます。例えばイタリアでは先日、法学者が首相になりました。一見すると、経済学者が財務大臣になるといい気がします。けれどもそれには民主主義的には問題があります。専門知識を根拠として政治家や大臣が選ばれるとなると、それは民主主義的に見て正統なのかということです。もし専門知識を持った人が大臣をやるのがいいならば、選挙をやる意味がなくなってしまう。ここには、専門知識と民主主義的手続きの問題がなかなか一致しないという重大な問題があります。

危機のときには専門知識を持った大臣の方がいい気もします。けれども、これを常態化、恒久化していいのか。もしこれを認めるなら僕らはある意味で民主主義を捨てることになります。けれども他方で、今の世の中でみんなが専門知識を持つことも不可能です。例えば僕は、年金の仕組みなど全然分からないわけです。厚生年金とかもよく分かっていない。自分に関係あるのに(笑)。これはある意味では20世紀頭ぐらい、あるいは19世紀からかもしれませんが、ずっとある「行政国家」がもつ問題です。専門知識が必要だけれども、それがなかなか民主主義の中では共有できない。この問題についてはどうですか。

■専門家の意義  
ガブリエル氏:
私が言っていたモデルというのは、別に科学者や専門家がそのまま政治家になって統治をすべきというものではありません。政治家自身も当然、私が言ったような政治家としての地位があるので、それは尊重されなくてはなりません。実際、専門家という点においては、今のシステムでは官僚がいるわけです。官僚が年金などの問題についての専門家として既に存在しており、彼らは終身雇用の立場で、政治家たちよりも長い期間はたらく専門家として機能しています。たまたまドイツでは博士号を持った物理学者のメルケルが首相で、彼女は物理学の専門家でもあるわけですが、それはたまたまであって、そういう人が首相になることを、私が薦めているわけではありません。いずれにせよ、官僚のような専門家は必要なのです。

私が言ったのは、公聴会がもっと必要で、重要な問題について公聴会を必ず開かなければならないということです。実際、法律の教授なら法律の技術的で複雑な問題について相談を受けて、公聴会がしばしば開かれているし、経済学の教授なら同じような形で(経済に関する)公聴会に呼ばれています。ところが、哲学の公聴会はどのくらいの頻度で開かれているしょうか。化学だったら、薬学だったらどうでしょうか。こうした問題についても、もっともっと公聴会を開いていく必要がある、というのが私の考えです。

その上で付け加えますが、いままさに話しているこの場も公共の場、「公共圏」ということです。そういう意味ではジャーナリズムも非常に重要です。ここではある種の「分業」があるわけですが、まさに「公聴会」はこうしたかたちでも開かれているといえます。この場で私たちの話を聞いて、みなさんは(市民として)自分なりの意見を形成することが出来るのであって、こうした場をもっともっとつくっていく必要があるでしょう。ですからジャーナリズムは民主主義のために非常に重要なものです。

もう一点あるとすれば、インターネットの問題です。インターネットをどう規制するかが非常に重要になってくるでしょう。なぜかというと間違った情報ばかりでは、しっかりとした公共圏が形成されないので、インターネットを「野性」の「なんでもあり」の状態で放置しておくわけにはいきません。その意味で規制を考えていく必要があります。その上で、主権を含めて民主主義をどうやって実現していくかという問題を考えていかなければなりません。
 
國分氏:
「知識」を通じて考えた問題にもう少し、こだわりたいのですが、公聴会をめぐるガブリエルさんの提案に僕は賛成です。「来るべき民主主義」(幻冬舎新書)という著作で僕が民主主義について提案したことも、とても穏やかなことです。議会は万能でも何でもない。ところが民主主義の話をすると、みんなすぐに議会の話になる。「議会をよくしよう」という。でもそうではなくて、民主主義にはもっと別の、民衆の意思の実現ルートがあっていいはずです。例えば僕が関わった住民投票もその一つだし、公聴会もそう。そうしたいろんなパーツを民主主義に足していって、民主主義的な意思の実現のルートを増やすという提案を僕はしてきました。ですから、今のガブリエルさんの話にすごく共感するところがありました。

さきほど行政権力の問題に触れましたが、この点について別の観点から考えてみましょう。行政権力が専門化しているがゆえに極めて強い力を持つというのは、20世紀にずっと指摘されていたことです。「行政国家」という専門用語でこれはずっと論じられてきました。ただ、行政の方が民主的な手続きに先立って動いてしまうことには理由があるというか、必然性もあるんですね。それは何かというと「スピード」の問題です。グローバリゼーション下では信じられないスピードで、災難が国に降りかかってくるわけです。それに対していちいち選挙して代議士を出して、議会で話し合って……ということは正直できない。いまのグローバリゼーション下では、猛スピードで事態が進行するため、どうしても行政権力は強くなります。

ドイツというのはある意味で、これを20世紀頭に悲劇的な形で体験した国だと思います。というのも大恐慌が起きて、ワイマール期の民主的な議会は何も決められなくなっていき、どんどん立法権を行政の方に手渡していくということが起こる。そうした結果としてナチズムが出てくるわけです。ナチスによる独裁というのは要するに行政が立法権を持つ、ということです。

行政は法律によって常に規制されているし、規制されなければならないわけですが、自分たちで自分たちのルールを作ってしまうというのは自分たちで好きに出来るということですから、これは行政の「夢」なんですね。ナチズムとは、絶対に実現してはならない行政の「夢」を実現してしまったものとしてみることができます。  民主的な手続きにはスピードの点で劣るという構造的な弱点がある。特に現代では民主主義とスピードの問題を無視できないと思う。これはポール・ヴィリリオ的な問題ですがどう考えますか。

■民主主義の理念と実行の緊張関係  
ガブリエル氏:
まさにおっしゃるとおりです。ここには再び、ここまで話してきた緊張関係が存在しています。つまり、民主主義の理念と、実際にそれをどう実行・実現していくかという問題の間にある緊張です。これは行政の問題になってくるわけですが、行政というのは「中間の媒介的な層」であって、経済、警察の問題、あるいは、火事が起きた時に消防士を派遣するといった問題に対応するわけですが、情報は複雑なわけですから、行政の役割とは、情報を、フィルターを通じて濾過(ろか)して複雑さを減らして処理することなわけです。

ここでの問題は、そうしたフィルタリングを通じて行政がだんだんと権力を増していくことです。つまり、情報処理すること自体が行政に権力を与えてしまう。この問題に対抗するには、倫理的なものが必要になります。民主主義をいざ実行しようとすると、そうした問題が出てきます。ルソーはかつて「市民宗教が必要だ」と言ったわけですが、これがまさに今で言う倫理が必要という話です。人々が責任感をもって行政を扱う必要があります。行政を行う人もまた市民なのです。

例えばメルケルであっても、法の前では私と同じ市民であって、その意味では「平等」なのです。メルケルはもし気にくわなければ権力を使って私を抑圧することができるかもしれません。でも倫理的にみたらそれは謝りを侵していることになります。とはいえ、抑圧することは非常に簡単なわけです。

そういう意味では、哲学が出来るだけ速い段階で人々に教育されること、つまり倫理的判断が出来るためのトレーニングを初期教育として行っていく必要があると思います。中学や高校で、数学と同じように教えるべきなのです。数学もトレーニングなしにはできないように、倫理的判断もトレーニングなしにはできません。倫理的教育は簡単なものであれば5~6歳でもできるので、出来るだけ速く学校で、哲学を他の学問と同じように教えるべきだと考えています。

國分氏:
同感です。実はいま日本では役人が書類を勝手に書き換えたことが問題になっています。この事件は役人が悪いというより、政治家がプレッシャーをかけているから起こったものなのですが、実のところ、僕はあの事件で一番問題だと思うのは、あまり大衆が強く怒っていないことです。とんでもないことが起こっているのに全然怒っていない。それどころか「もう分かったから報道はやめろ」という声すらある。

僕はここでアレントが「全体主義の起源」で示した、大衆社会における大衆を姿を思い出します。アレントは「大衆は何も信じていないから、何でも信じる」と言っています。何か「これだけは動かせない」という価値を信じていないから、何が起きても「ああそうなんだ」とすぐに信じる。

もう一つ大事な要素は、そうした「軽信」(何でも信じる)と合わさった「シニシズム」です。どういうことかというと、騙されたことが分かっても、その次の日には「ああ、まあそうだろうと思っていたよ。分かっていたよ」とシニカルにそれを受け入れてしまうのです。騙されていることに驚かない。僕は、これは完全に今の日本だなと感じます。首相が「福島の原発はアンダーコントロール」と言っても、怒らない。そういうことが常態化している。そして、そうした事態を招いている原因の一つは、アレントの分析に従うならば、人びとが何か価値を信じていないということにある。

例えば今日、ガブリエルさんは「民主主義において平等が大切だ。価値を共有することで権利が生まれる」とおっしゃった。僕もその通りだと思いますが、日本の問題は「平等」とか「権利」といった価値が信じられていないということなのです。ここからルソーの言う「市民宗教」について考えることもできるでしょう。「市民宗教」もまた、ある種の価値の共有のために必要とされるのです。僕は最近「信じる」ということが大切だと思っているんです。ではどうすれば、みんなが価値を信じることが出来るのだろうか。これはガブリエルさんに伺うようなことではないかもしれませんが、もしご意見があれば伺いたいです。

ガブリエル氏:
大衆心理に対する診断について、完全に同意します。これは解決策ではなくある種の提案ですが、教育において読み書きを教えるわけですが、読み書きについてはみんな「それは必要だ」というわけです。読み書きなんて教えなくていいという人がいたら「狂っている」と思うでしょう。それに対して、倫理的なことについて無知な状態は一般に受け入れられてしまっています。この状況は本当に大きな過ちです。私たちが民主主義的な社会システムのもとで生きている状況で、本来は「自由に考える」ということが重要ですが、幼稚園や学校では決して教えられない。むしろ「自由に考えない」ように教えられているわけです。

本来、「自由に考える」というのが最も重要な教育における原理であって、最初に挙げられた大衆の問題も「自由に考える」ということを徹底すれば解決できる問題なのではないでしょうか。いま日本でもドイツでも直面している問題は同じもので、「自由に考える」ということで一つの解決策が見えてくるのではないか。

もし、「自由に考えること」ということに同意しない人がいたら会ってみたいですね。トランプ(米大統領)は同意しないかもしれないが、彼は民主主義者じゃないので放っておきましょう。

■立憲主義と民主主義  
國分氏:
次に立憲主義と民主主義の関係について話し合っていきたいと思います。まず、簡単な質問なんですが、ドイツでは「立憲主義」って言いますか?  

ガブリエル氏:
言いますよ、もちろん。

國分氏:
実はこの言葉、日本では少し前まであまり使われなかった言葉なんです。法律の専門家は使っていたけれども、一般的にはほとんど耳にすることはありませんでした。どうしてこんな専門的な言葉が注目を集めるようになったのかというと、この原則が危うくなってきたからです。

立憲主義の考え方というのはある意味では簡単で、どんな権力も制約を受けるということです。民主主義というのは民衆が権力をつくる政治体制のことであり、これと立憲主義を組み合わせたのが近代国家の基本的な枠組みであるわけですが、だとすると、立憲的民主主義の政治体制においては、「民衆が権力を作るけれども、その権力でさえも憲法によって制約を受ける」ということになるわけです。つまり、「民主主義だからといって民主的に決めれば何でもやってよいわけではない」というのがその基本的な考え方になります。

すごく分かりやすい例を挙げると、人種差別を合法化するような法案を国会で通すことは民主主義においてあり得ます。しかし、そういう法はあらかじめ憲法によって禁止されているので、最終的にはボツになる。そうやって、あらかじめ民主主義がやっていい範囲を決めておくのが立憲主義の考え方です。ただ、立憲主義と民主主義の関係は、国とか、地域、歴史によって色々変わってくるものだと思います。ドイツでは、民衆の力としての民主主義と、それに対する憲法の制約について、どういうふうに受け止められているでしょうか? ドイツは立憲主義的な発想が非常に強いと聞いていますが、どうでしょうか?

ガブリエル氏:
まさにこの問題はドイツにとっても中心的な問題で、立憲主義も様々な論者が強調する問題です。立憲主義とは、どのような権力も制限されなければならないということです。ドイツの憲法でも立憲主義が言われており、第1条は、人間の尊厳は不可侵である、としています。これが第一命題となっていて、そのうえで2条、3条以降も書かれている。

私の今日の話は、このドイツ憲法第1条の私なりの解釈だったわけです。戦後ドイツは人々が権力をどのように制約するかという観点から憲法をつくったわけですが、重視されたのは、倫理的な土台がなければならないということです。政治的なシステム、つまり国家は単なる形式的なシステムではなく、倫理的な基礎をもったシステムになっていなければなりません。倫理的な基礎がなければ、すぐに無制約的なシステムや権力に取って代わられてしまうと考えました。  

國分氏:
いまのお話に同意です。ただ、いまおっしゃった「倫理的な基礎」についてはもう少し考えるべきことがあると思うんです。現在の首相である安倍氏は、「憲法解釈に責任をもつのは内閣法制局長官ではなく、選挙で国民の審判を受けるこの私だ」という発言をして物議を醸したことがあります。こう発言する彼が、法とは何か、憲法とは何か、立憲主義とは何かについて、何も知らないし、何も分かっていない、無知な人間であることは明らかです。しかし、そこには、それでもなお論ずべき論点があると思います。それは何かというと「民主的な権力はいったいどこまで及ぶのか? どこまで及ぶべきなのか?」という問いです。

もちろん、ドイツの憲法第1条の理念を否定する人はいないと思います。でも、「憲法に書かれているからもう絶対に誰も手出しできない」ということは、民主主義の理念とどう折り合いをつけることができるのか。この問いは抽象的には考えられないものかもしれず、論点ごとに考えなければならないことかもしれません。ただ理論的問題としてそういう問題があることは指摘しておきたいのです。

こう述べながら僕が思い出しているのは、アントニオ・ネグリという哲学者です。ネグリ氏はイタリアの左派の哲学者として世界的に有名な人ですが、このネグリ氏は明確に立憲主義に反対しています。彼に言わせれば、民主主義は、民衆が自分たちで自分たちのことを決める政治体制なのだから、どうして他の原理が必要なのかということになるわけです。僕はネグリ氏に同意しませんが、しかし気持ちは分かる感じもするわけです。

立憲主義というのはある意味、エリート主義的な原理だと思います。民主主義が下からつくっていくものだとしたら、立憲主義は上から「はいダメ」と言ってくる。だから立憲主義に反対する人がいることは分からないではないのです。日本の首相だけではなく、哲学者にもそういう人がいる。「なぜ自分たちが決めちゃいけないのか」という民衆の反発をどう考えたらよいでしょうか。  

ガブリエル氏:
幸運なことに、人間の尊厳についてドイツでは「それが必要ない」というふうに誰も否定しないわけです。それは極右であっても、どんな人であっても人間の尊厳の重要性については否定しない。このことからも分かるように、民主主義は制限されています。民主主義が決定できることは「全部」についてではないわけです。例えば我々は「誰かを拷問するかどうか」について、投票を行うべきではありません。この部屋で誰かを拷問するかどうかを投票して決めてはいけないわけです。そういう意味で、民主主義が投票で決められる内容は制限されています。それに対して、極左の人たちは何でも決定できるという発想になってしまいますが、それが実現すると、スターリニズム、毛沢東主義になってしまう。だから私はネグリ氏の考えには明確に反対しています。民主主義にはとにかく制限が必要で、この制限はどういったものかというと、ふつうの正しい考え(ライト・マインド)を持っている人なら決して疑問視しない。

例えば、人間の尊厳についての問題がそうでしょう。人間の尊厳を傷つける拷問は、民主主義が絶対に決めてはならない。つまり民主主義は自分自身に、つまりは民主主義自体に反対することができません。これが、私が主張するラディカル・デモクラシーという理念になります。「民主主義は民主主義についてのものである」というのがラディカル・デモクラシーの基本的な発想です。

ヘーゲルは「法哲学」で「法は自由意志を欲する自由意志である」と言っています。つまり自由意志を実現するものに反対するようなことを望むことはできません。民主主義には決して疑問視されてはならない内容、事項が存在していて、もしそれを望んでしまうなら、2+2=7と言ってしまうような非常に大きな誤りを犯すことになる。2+2=7なら単に数学の計算間違いですが、民主主義の場合は、非常に深刻な倫理的な誤りを犯すことになるわけです。  

國分氏:
日本では数年前、「いつまでたっても憲法を変えられないから憲法の変え方を変えてしまおう」と構想した首相がいて、それが今の首相です。今のルールの下で、ゲームのルールを変えることができるのかというすごく形而上学(けいしじょうがく)的な問題なんですが、総スカンを食らったので彼はこれを引っ込めました。ところが、そういう光景を目にしても日本人はあまり驚かなかった。あれにもっと驚くべきだったということだと思います。立憲主義的な価値の共有がいかに尊重されているか、それがドイツの話からよく分かったように思います。これを日本でどう実現できるか。そうしたことを思って話を伺っていました。

■倫理は教育できるのか
――会場からの質問を受ける前に一つ質問させてください。民主主義には倫理が欠かせないということでしたが、それはどう教育できるのでしょうか。相次ぐテロなどをみていると、民主主義を含む欧米型の政治体制に反発を抱く人は少なくありません。  

ガブリエル氏:
あらゆる子どもたちは生まれたときに、倫理的な問題に対するある種の感性を持って生まれてきます。子どもたちはすぐに規範というものを求めるようになります。人間というのは、規範性に対する感性を持って生まれてくる。つまり、大多数の人間は、生活において規範的な構造というものを探しながら生活するわけです。

その時に選択肢が限定されたものにならないといけないわけです。もし私たちが子どもたちに倫理を早い段階で教育したとしたら、彼らがのちに権力や社会的地位を得た時に、何でも選択するわけではなくて、例えばいまおっしゃったような、民主主義の価値をまったく信じていないような人々が行ってしまうような論理づけ、理由づけにおける誤謬(ごびゅう)、誤りというものがだいたいなくなるわけです。

民主主義を信じないで排外運動に傾くような人たちは、欠陥を含んだ理由付けをしてしまっています。例えば「ユダヤ人は悪いやつだ」と信じている人たちに「なぜそう考えるのか」と聞くと、そのときにかえってくる理由づけは、まさに欠陥を含んでいる薄弱な推論です。

もちろん、倫理的な教育をしたとしても、そのうえで人々の意見が異なって合意しない、意見の食い違いは存在します。ただその時の意見の食い違いは合理的な形をとるようになるわけです。つまり、ちゃんとした理由づけをできる人たち同士の意見の違い、互いに違うようになるという状態は、それ自体が倫理的な状況と呼ぶことができます。なぜかというと、同意していない物事についての「幅」がすでに限定されていて、そこでの意見の不一致はめちゃくちゃなものではなくて、合理的なものになっている。そういうものが実現された状態こそが、私が民主主義の「倫理的な土台」と呼ぶようなものです。  
    ◇  
Markus Gabriel 1980年生まれ。独ボン大教授。専門はドイツ観念論など。著書に「なぜ世界は存在しないのか」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「神話・狂気・哄笑」など。ポストモダン思想への批判で知られ、新しい実在論という立場から議論を展開している。   
   ◇  
こくぶん・こういちろう 1974年生まれ。東京工業大学教授。専門はフランス現代思想。2013年に都道建設計画をめぐる住民運動に関わり、行政と民主主義の関係に光を当てる議論を展開した。著書に「中動態の世界 意志と責任の考古学」「来るべき民主主義」など  注:一部割愛
 ≫(朝日新聞デジタル:一部割愛)

「ラカン三体とパース十体」中原紀生

■対象O、ル・レエル、純粋言語
宇波彰氏は、『記号的理性批判──批判的知性の構築に向けて』の第Ⅰ部「理論的な領域」に収められた七つの論考群で、パースとラカンとベンヤミンの思考を関連づけています。精確に述べると、パースの三つのカテゴリー論のうちの「第一次性」、すなわち「あらゆる綜合と差異化よりも以前にある」もの、いいかえれば言語化できない何かと、ベンヤミンの「純粋言語」、すなわちいかなる表現も表象も担わない言語、したがってわれわれに届かない言語と、ラカンの三領域論のなかの「ル・レエル」、すなわちシンボル化(言語・記号によって表象されること)を拒否するもの、もしくは「特殊な意味での「物」の領域」という三つの概念を、いわば「星座的」(ベンヤミン)ないし「機械状」(ガタリ)に連結して論じているのです。
以下、宇波氏の議論を、主として、(ベンヤミン、ラカンとの関係を軸にパースの思想を主題的に論じた)「弱者の言説」から抜きだし、適宜、(「ラカンのシニフィアンに光あれ!」「アブダクションの閃光」「廣松渉の言語哲学」といった)他の論考での議論を補ったうえで、編集し要約してみます。
1.パースの「対象O」
パースの思考では、記号論(認識論)は存在論と不可分になっている。
そのパースの記号論の基本的な概念のひとつに「セミオシス」(semiosis 記号連鎖)がある。対象O(object)を記号S(sign)が示すとき、その記号Sを解釈項I(interpretant)によって解釈するというプロセスである。この解釈項Iは、実際には記号Sとは別の記号S'である。そしてこの記号S'はまた別の記号S''で解釈されるから、そのプロセスは無限に続く。そのとき、もとの対象Oは変化しない。
ここで留意しておくべきことは、記号Sは対象Oに対してシニフィアンであるが、その次に来る記号S'にとってはシニフィエになるということである。無限に継起するシニフィアンS、S'、S''…は対象Oとつながりがあるように見える。しかし、それらは対象Oとは別のものである。そこには「ずれ」がある。対象O、すなわち最初に存在する解釈の対象であるシニフィエ(としての事物[the thing,Ding])は、セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている。
廣松渉は『もの・こと・ことば』で、実在と言語の関係について、対象的世界は概念によって、つまり言語化されることによってのみ存在するというヘーゲル(『精神現象学』)の議論を「援用」して、「所知」から端的に純化された原基的な「所与」なるものは存在しないと書いている。すなわち、対象そのものである所与(実体=「がある」)とその認識である所知(関係=「である」)との間には、「「所与」が単なるそれ以上の或るもの──凱切にいえば、単なるそれ以外の、単なるそれとは別の或るもの──として覚知されるという二肢的な構制」がはたらき、したがって、「所与を所知として覚知する」(所与を何かとして措定したとたんに、それは所知としての述定的把握になってしまう)という構造がどこまでもつきまとうと書いている。
これはパースのセミオシスと同じ考え方である。そして、このプロセスを認める限り、所与は認識不可能なものとして現れてくる。ここには、ラカンのル・レエルとも似た考えがある。また、所与は、それ自体では意味・意義を示すことができないので、ベンヤミンのいうアレゴリカー(アレゴリーを用いる者)が、その対象そのものとは別の「或るもの」によってこれを示すことになる。
2.ベンヤミンの「純粋言語」
ベンヤミンはつねに「事実的なものが理論である」というゲーテの教えに忠実であった(ボルツ)。
そのベンヤミンは「翻訳者の課題」で次のように書いている。「いかなる詩も読者に、いかなる美術作品も見物人に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないのだ。」ここでベンヤミンは、テクストが受け取るひとのために存在するのではなく、それ自体で価値を持つといっている。このようなベンヤミンの思想と深い関係があるのは、彼の純粋言語(reiner Sprache)の概念である。純粋言語は、「もはや何ものをも意味せず表現しない」(「翻訳者の課題」)。それは意味を持たず、表現もしていない言語であるから、もとより伝達の手段ではなく、したがってそれを「解釈」することは最初から不可能である。
純粋言語という考え方には、ヴォーリンガー(『抽象と感情移入』)の影響がある。ヴォーリンガーは、感情移入、つまりミメーシスを原理とする芸術を否定した。ミメーシスに代わる原理が「抽象」である。それはいかなる「表象」とも断絶した、リーグルのいう「芸術意欲」に基づく芸術の原理であった。
ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』で、ヤコブ・ベーメの「永遠のことば、神の響き、神の声」ということばを引用している。「神の声」は表現や伝達を目標としていない純粋言語であり、人間の堕落以前、バベル以前の「アダム語」である。芸術家はときにこのような「言語以前の言語」を用いた作品を作る。たとえば、ジジェク(『幻想の感染』)はシューマンの「フモレスケ」について、「声にならない〈内なる声〉にとどまる、声による旋律線」云々と書き、ラカン解釈のキーワードのひとつである「到達不可能なものとしてのル・レエル」(the impossible-real)という概念を使って説明している。
地上の人間は「神の声」をなんとか聞こうとする。そのときに考えられる手段が、アレゴリーである。「アレゴリカーの手のなかで、事物はそれ自体ではない他のなにかになり、それによってアレゴリカーは、この事物ではないなにかについて語ることになる。」(『ドイツ悲哀劇の根源』)ここでベンヤミンが「事物」(Ding)といっているのは、パースの対象O(としてのテクスト)であり、「なにかほかのもの」といっているのは記号S、S'、S''…である。
3.ラカンの「ル・レエル」
パースの第一次性(firstness)は、先だって存在しているものであり、記述不可能な何かである。それはラカンのル・レエルと似ている。なぜなら、これまで「現実界」と訳されてきたル・レエルは、「シンボル化に絶対に抵抗するもの」(セミネールⅠ)もしくは「不可能なもの」(セミネールXⅠ)と規定されているからである。
ラカンの三領域論のうち「リマジネール」は、しばしば「想像界」と訳されているが、「イマジネール」は実際には「イマージュ」(image)の形容詞であり、したがって、リマジネールは「像(イマージュ)が作る世界」と解釈すべきである。たとえば、ラカンにおいて、自我は「イマージュ的」である。有名な鏡像段階理論も、まさにイマージュの領域のことであり、幼児の自我形成が「鏡に映った像」として存在することを説くものである。また、「像(イマージュ)的なパロール」(parole imaginaire)は、分節言語以前の、まだ記号化されていない原初的な言語のことであり、ベンヤミンにいわせれば、「純粋言語」ということになろう。
ル・サンボリックは「言語・記号が作る世界」であり、言語・記号・法・慣習・伝統・文化などが一体となって作る領域である。ゆえに、これまで「象徴界」と訳されてきたル・サンボリックこそ、むしろ「現実界」である。ジジェクが指摘するように、「シンボル化の可能なものだけが存在することができる」のである。
このル・サンボリックの領域に入ることを拒否するものが、像(イマージュ)にも記号・言語にもならないものとしての、すなわち「シンボル(言語)にすることが不可能であり、スクラップであり、ル・サンボリックの屑であるもの」(ジジェク)としてのル・レエルである。ル・レエルの領域にあるものは存在しない。「女」や「性的関係」は、言語化・シンボル化が不可能なル・レエルである。ラカンはそれを「物」(das Ding)と呼んだ(セミネールⅤII)。ル・レエルの語源はラテン語の res (物)である。この「物」は言語化されることに抵抗する。言説性に先だつル・レエル、もしくは「残りものとしてのル・レエル」(ジジェク)は、妄想の領域、狂気の世界でもある。
ジョン・P・マラーは、ラカンがセミネールでしばしばパースに言及したことに触れ、ラカンがその三領域論の源泉をパースの三分法に見出した可能性があると指摘している。そのマラーは、ル・レエルについて次のように書いている。「現実は、イメージ、論理的なカテゴリー、ラベルからなるシステムであり、差異化していて、通常は予測可能な経験の連続性に従う。これに対して、ル・レエルは現実の彼方にあって、経験のなかで、想像不可能で、名前がなく、差異化されていない他性(otherness)である。」
■パースの現象学、あるいはパース三体
先にすすむまえに、パースの三つのカテゴリーについて確認しておきます。
米盛祐二氏は『パースの記号学』で、パースの思考を「記号主義」と呼び、その主張を、「「存在」(being)とはわれわれの認識と思考の対象であり、われわれの認識と思考の対象はすべて記号であり、ゆえに存在と記号は形而上学的に同じものである」と要約しています。このパースの記号主義によると、われわれの心に現われる感情、感覚、認識、思考などの総合的全体、すなわちパースが「現象」(phaneron)と呼ぶいっさいの意識現象は、記号的現象にほかなりません。
米盛氏によると、パースの「科学的哲学」の体系は「現象学/規範学/形而上学」の三部門に大別され、規範学は現象学に、形而上学は規範学にそれぞれ依拠します。さらに、「規範学」は「美学/倫理学/論理学」の下位部門をもち、このうち「論理学」が広義の記号論に、「論理学」の三つの下位部門のうちの第一のものである「思弁的文法学」が狭義の記号論(記号に関する一般理論)を扱う部門に該当します。このように、記号論に先行し、それを基礎づけるものとされる現象学は、「日常いつでも誰の心にも現われるいっさいの現実を直接観察し記述し、その現象の分析をとおして、最も広い意味における「存在」(being)の基本的な存在様式(modes of being)または普遍的カテゴリーを探究する最も抽象的で一般的な存在の科学」です。
この、存在一般の(同時に、思惟の)基本様式としての三つのカテゴリーとは、およそ次のようなものです。以下、米盛氏の解説から(私の「琴線」に触れた箇所を)任意に切り貼りして、整理しておきます。
◎第一次性
・質的可能性または潜在性としての世界の原初的な在り方。
・記述することのできない未分化なものの在り方。ジェイムズの「純粋経験」(pure experience)におけるものの在り方、ホワイトヘッドの「純粋潜在性」としての「永遠的対象」(eternal object)、あるいはサンタヤナの「本質」(essence)のカテゴリーに近い。
・情態の性質(qualities of feeling)。ただしそれは現実の感覚に依存する性質ではなく、いわば感覚的現実的性質の背後にある純粋に潜在的可能的な性質。その意味ではロックの「第二性質」よりもカントの「物自体」の概念に近い。
・感覚的経験によっても理性的認識によってもとらえることのできないものの在り方。ただ適当な抽象化によってその所在を示すことができるだけで、それを具体的に記述し説明することはできない。
◎第二次性
・現実性。われわれ自身で生み出すことができる想像の世界ではなく、われわれの勝手にならない強制的で現実的な生の事実の世界。
・純粋に個体的なものの在り方。ドゥンス・スコトゥスの言葉で言えば、「ここでいま」(hic et nunc)起る出来事であり、不意に襲う一回限りの経験。
・個体化の原理。ただし、スコトゥスが普遍(共通本性)と個物を単に形式的区別と考えていた(個体化とは、普遍が個物に縮約される自然の操作である)のに対して、パースにとっては、普遍の在り方と個物の在り方は全く別の存在様式である(普遍の存在様式は第三次性のカテゴリーに属する)。
・現存物(existence)。現存するものは他者を押しのけて自らの存在を顕示し固守する対抗的傾向をもつ。そのような反作用、対抗性、相反性には理性は全く存在せず、ただ野蛮な力(盲目的力動性)があるだけである。
◎第三次性
・媒介(mediation)あるいは中間性(betweenness)の存在様式。表意作用の同義語。パースいわく、「発端は第一であり、末端は第二であり、中間は第三である」。
・普遍的一般的法則的なものの在り方。一般性は個々の事実の単なる集積ではなく、「すべての数多性(multitude)を越える一つの全体を形成している」。
・すべての部分が部分を含み、いかなる分割点も容れないような、そういう連続的なものの在り方。
・一般性と法則性からなる習慣。すなわち、一般的状況の下で、一般的な仕方で行われる行動の一般的様式であり、未来の状況と結果に関わる一般的な行動性向。あるいはカオスから秩序へ、偶然から法則へ、具体特殊から一般普遍へ、可能性から実在へ、不連続から連続へと進化する宇宙の習慣形成の過程。
第一次性が単なる性質、潜在性、可能態としてのものの在り方であり、第二次性が現実的個体的事実の在り方であるのに対して、第三次性は普遍的一般的法則的なものの在り方を言う。「実在」の存在様式がすなわち「第三次性」と呼ばれるものである。しかし、厳密に言うと、パースは現象学と形而上学を区別していて、「第三次性」は現象学的概念であり、「実在」は形而上学的概念である。
これらの「現象学的カテゴリー原理」は、パースの記号論においてセミオシスの三つの要因に、すなわち、第一のものとしての「記号ないし表意体」、第二のものとしての「対象」、第三のものとしての「解釈項」に、それぞれ相当します。パースいわく、「記号あるいは表意体[representamen]とは、ある人にとって、ある観点もしくはある能力において何かの代わりをする[stand for]ものである。記号はだれかに話しかける、つまりその人の心の中に、等値な記号、あるいはさらに発展した記号を作り出す。もとの記号が作り出すその記号のことを私は、始めの記号の解釈項と呼ぶことにする。記号はあるものつまり対象の代わりをする。」(内田種臣編訳『パース著作集2 記号学』)
米盛氏によると、これらの要因は「三位一体的」であり、どの要因を欠いてもセミオシスは成立しません。そして、それらの要因(「記号=父」「対象=子」「解釈項=精霊」とでも規定できるでしょうか)は、すべて記号にほかなりません。「とりわけ記号の対象について言うと、その対象は記号から独立に存在するある対象であるが、しかしその対象が記号の対象である限り、それはそれ自体記号の性格を有するものでなければならない。(略)そしてパースによると、われわれは記号が表意するその対象しか知らない。われわれはつまり存在するものについて、それらが記号の対象となる限りのこと、あるいはそれらが記号のうちにその姿を現わす限りのことしか知らないのである。ゆえに、存在と記号(およびその解釈思想)は同義であり、存在はすなわち記号であり思想である。」
(宇波氏の「対象O(としてのテクスト)」の概念は、パース記号論における「記号ないし表意体/対象/解釈項」の三つ組のなかの一項でありつつ、しかしそこにとどまることなく、パース現象学の世界へとつながる通路を宿している。しかもその場合、第一次性だけではなく、おそらくは三つのカテゴリーの総体に根ざしたものと想定されている。かつ、同時に、パース形而上学(存在論)における「実在」の概念にも、とりわけ、「存在の初期の段階には、現在のこの瞬間における現実の生と同じくらい実在的なものとして、感覚質の宇宙が存在したのだ」(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』)といわれる、その宇宙論における第一のものと深いつながりをもっているものと思われる。)
■対象Oとしての古今集
私は、宇波氏の議論に惹かれながらも、同時に、そこにかすかな違和感や懸念、疑問をいだいています。
違和感とは、たとえば、パース記号論の肝ともいうべき「記号/対象/解釈項」の三項関係(この三つの要因のなかの第一のものである「記号」のことを、パースは「レプリゼンタメン」(表意体)とも呼んでいました)が、セミオシスのプロセスにおける「対象と記号のずれ」という問題を建てることによって、「対象O」と「記号連鎖S、S'、S''…」との、ひいては「テクスト」と無限につづくその「解釈」との二項関係へと「矮小化」されてしまわないかといったことです。
また、「対象O」が、(本来、パースの哲学体系では記号論に先立ち、そして記号論を基礎づけるものとされている現象学の領域に属する)「第一次性」のカテゴリーに関連づけられ、そこからさらに「ル・レエル」や「純粋言語」に関連づけて論じられていることについても、(それが宇波氏の議論の肝であり、かつ、私が強く惹かれる点であるだけに)、慎重かつ精緻な吟味をほどこしていかないと、異なる概念をひと括りに単純化し、そこに「語りえぬもの」と「語りうるもの」との二分法を、もしくは、「実在」(純粋言語としての対象O)と「言語」(アレゴリーとしての記号連鎖)との二項関係をめぐる出来合いの立場をもちこむだけのことになってしまわないかという懸念が拭えないのです。
これら以外にも、議論の細部にわたっていくつかの疑問が浮上します。(対象Oや純粋言語が事物=物(das Ding)として、つまりル・レエルの領域に属するものとして規定されていること、また、イマージュの領域に属する「像的なパロール」が純粋言語になぞらえられていることをどう理解すればよいか、等々。)しかし、これらの違和感、懸念、疑問は、宇波氏に直接問うべきことではなく、宇波氏の議論に触発されて(というか、これを勝手に「使って」)、自分なりの論を仕立てようとしている私自身が解明すべき課題です。では、その「自分なりの論」とは何か。
……宇波氏が構想しているように、対象Oをル・レエルや純粋言語と関連づけて考えることができるとすれば、そのように解釈された対象Oにかかわるパースのセミオシスには、どこかしら聖書解釈のプロセスを思わせるところがある。聖書に印された記号としての文字(それはおそらくル・レエルの領域からもたらされたものだろう)が指し示しているもの、すなわち「最初に存在する解釈の対象」であり、かつ「セミオシスのプロセスのなかでは、遅れていて、取り残されている」ものは、純粋言語としての「神の声」だったのではないか。また、その言語ならざる言語が使徒や神学者や信者にもたらす様々なアレゴリーとしての解釈項は、ル・レエルとル・サンボリックの中間に、すなわちリマジネールに存在する言語(それはおそらく「命名する言語」のことだろう)だったのではないか。そして、そのような言葉の到来(啓示)こそが、実は、聖書編集の作業を導いたそもそものはじまりだったのではないか。……
宇波氏の論考群を読みすすめながら、私はそんなことを考えていました。この「アイデア」を目下の私の関心事に、つまり広狭二義の貫之現象学における歌体論の問題に引き寄せるならば、それは次のようなものになるでしょうか。
……対象Oにかかわるパースのセミオシスは、歌を詠み、歌の善し悪しを判定し、歌の心を受容するプロセスを、また、詞華集を編むプロセスを思わせる。たとえば、古今和歌集というテクストに綴られた記号としての仮名文字(「千代経たる松」)が指し示している対象は、純粋言語としての「いにしへの声」であり、その詞ならざる詞が歌の詠み手や評者や受容者にもたらす様々な「思ひ」(純粋経験)としての解釈項は、イマージュそのもの、もしくはイマージュとしての詞(クオリア憑きの歌詞[うたことば])だったのではないか。そして、そのような様々な「思ひ」に「かたち」を与えるものこそが、実は、詞華集の編纂者(アンソロジー・マン)を導いた(空虚な器としての)歌体だったのではないか。……
■命名行為としての芸術表現
若干、補足します。
その一。聖書に印された記号としての文字が、ル・レエルの領域からもたらされたものではないかと註記したことについて。
第4章でとりあげた「かなと精神分析」(矢口浩子・新宮一成)に、川底から浮上する読めない文字の夢に関して、あの世(川底=ル・レエル)とこの世(水面=ル・サンボリック)の境を漂う「読まれないのに文字であり続けるという逆説的な文字の状況」をめぐる議論があったこと。また、つづけて抜き書きした『文字と見かけの国』(佐々木孝次)に、文字はル・レエルの近くにいるが、読まれることによってル・サンボリックに参入する、しかし、ル・サンボリックの領域に参入しても「つねに意味から無意味に向かう運動を支えている」と書かれていたこと。私が依拠しているのは、これらの議論です。(声もまたル・レエルから到来するものなのではないか。しかし、それはおそらく「声」ではなく、「響」と呼ばれるべきものだろう。)
その二。純粋言語(神の声)がもたらすアレゴリーとしての解釈項を、「命名する言語」と註記したことについて。
ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」で、「事物の言語/人間の言語/神の語」もしくは「存在の言語/認識の言語(名称言語)/創造の語」の三層構造にもとづく言語論を展開していて、その第八段落に、「人間は名づけるものであって、この点において私たちは、人間のうちから純粋言語が語っていることに気づく。すべての自然は、それが自らを伝達しているかぎり、言語という姿で自らを伝達しているのであって、結局のところ人間において自らを伝達しているのである。」と書いています。
この「名づける言語」としての純粋言語をめぐって、細見和之氏は『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む──言葉と語りえぬもの』で、「そもそも表現するということは、自分の生涯や場面、さらには「世界」に、名前を与えることではないか」と書き、ベンヤミンが語る「命名」という行為を、芸術表現の場面に引き寄せて具体的に理解しようとしています。
《たとえば晩年のセザンヌがサント・ヴィクトワール山を反復的に描き続けるとき、そこにはほかでもないサント・ヴィクトワール山の正しい名称をもとめてなされた執拗な探究、という側面があったのではないか。あるいは、コルク張りにして外部の物音をいっさい遮断した部屋で『失われた時を求めて』を書き継いだプルーストは、ほとんど事物的存在であることを断念して、自らの生涯に名前を与えるという営みに没頭していたと呼べるのではないか。(略)
いや、セザンヌやプルーストなどという巨匠を持ち出すまでもない。私たちが自分や他人の生涯、日々のひとこまを詩や小説に記そうとするとき、そこにはその生涯や日々のひとこまに名前を与えようとする志向があるのではないか。私たちは自らの生涯や人生のひとこまをかけがえのない名前で呼びたいのだ、長大な小説という姿で、あるいは小さな短詩という姿で。》
しかし、ここでいわれる「名前」(あるいは、より高次の、神の語に近接した「固有名」)としての純粋言語、つまり人間のうちから語られる名称言語(認識する言語)と、「神の声」としての純粋言語、つまり何も意味せず、表現せず、伝達もしない言語(創造する語)とでは、その存在の次元がまるで異なります。にもかかわらず、それらが同じ「純粋言語」の名で呼ばれていることの理路は、先にふれたベンヤミンの言語論における三層構造を踏まえるとよく理解できます。以下、ベンヤミン自身の文章を二つ、いずれも細見訳で引きます。
《事物の言語を人間の言語に翻訳するということは、沈黙しているものを音声をもつものへと翻訳することだけではない。それは、名前を欠いたものを名前へと翻訳することである。したがってそれは、ある不完全な言語をいっそう完全な言語へと翻訳することであって、それは何かをつけくわえないわけにはいかない。すなわち、認識である。しかし、この翻訳の客観性が保証されているのは神においてである。というのも、神がそれらの事物を創造したのであり、それぞれの創造ののちに神もまた最後にそれぞれの事物を名づけたように、それらの事物のなかの創造する語は認識する名前の萌芽だからである。とはいえ、この神による命名は創造する語と認識する名前が神において同一であることを表現しているにすぎず、神がはっきりと人間に与えたあの課題、事物に名前を与えるという課題を、先取り的に解決するものでないことは、明らかである。人間は、事物の沈黙した、名前を欠いた言語を受容し、それを音声をもつものという姿で名前へと移すことによって、この課題を果たすのである。もしも人間の名称言語と名前を欠いた事物が神において結びついているのでなければ、そして、それらがあの神の創造する語から解き放たれたのでなければ、この課題は果たしえないだろう。神の創造する語は、事物においては魔術的な共同性にもとづく物質の伝達となったのであり、人間においては至福の精神をそなえた認識と名前の言語となったのである。》(第一八段落)
《ある存在の言語とは、その存在の精神的本質が自らを伝達している媒質である。この伝達の連続した流れが自然全体を貫いていて、もっとも低い段階の実在から人間にまで、そして人間から神にまで流れている。人間は、自然および自らの同胞に(固有名という姿で)与える名前によって、自らを神に伝達している。そして、自然にたいして人間は、自然から受け取る伝達にしたがって名前を与える。というのも、自然全体もまた、名前を欠いた沈黙の言語、創造する神の語の残滓によって、浸透されているからである。創造する神の語は、認識する名前としては人間のうちに、裁く判決としては人間のうえに、漂いながら自らを保持してきたのである。自然の言語は、ひとりひとりの歩哨がつぎの歩哨に自分自身の言語でつぎつぎと伝えてゆく、秘密の合言葉に譬えることができる。その際しかし、合言葉の内容となっているのはその歩哨自身の言語なのである。いっそう高次の言語はすべて、いっそう低次の言語の翻訳であって、最後には、この言語運動の統一性である神の語が、究極の明晰さで自らを展開するのである。》(第二六段落)
■空虚な器としての歌体
その三。純粋言語(いにしへの声)がもたらす「思ひ」としての解釈項をめぐって、それを「純粋経験」といいかえ、「イマージュそのもの」と規定したことについて。
ここで私が想起しているのは、『物質と記憶』第七版の序に、「物質とは、私たちにとって、「イマージュ」の総体なのである。そして「イマージュ」というものを、私たちは、観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在──「事物」と「表象」の中間にある存在──と解する。」(田島節夫訳)と書いたベルクソンです。そのベルクソンは、ウィリアム・ジェイムズ宛の手紙(1905年7月20日付け)に、「私はこの種の実在を指し示すのにイマージュという語を用います」と書いていて、そこでいわれる「この種の実在」とは、主観的でも客観的でもない「純粋経験」のことなのです。
小林秀雄は、江藤淳との対談「『本居宣長』をめぐって」で次のように語っています。いわく、「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしない。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとする。『古事記伝』になると、訳はもっと正確になる。「性質情状」と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。物のアルカタチ。これが「イマージュ」の正訳だ。ベルクソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚体験を考えていた。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された経験だったのだ。
その四。様々な「思ひ」に「かたち」を与える歌体をめぐって、それを「空虚な器」と形容したことについて。
ベルクソンは、『物質と記憶』第二章「イマージュの再認について──記憶力と脳」の最終節「記憶の現実化」で、「私たちは、脳髄の特定細胞に局在して細胞が破壊されると絶滅されるような記憶を見いだすことはない。」と書き、「聴覚的知覚」と「聴覚的イマージュ」(=「記憶心像」[image-souvenir])と「観念」(=記憶力[me'moire]の奥底からよび起こされる純粋記憶[souvenir pur])という「三つの項」をめぐる議論を展開しています。
いわく、聴覚体験、とりわけ「言語的イマージュという特殊なイマージュ」をめぐる「純粋な経験」について、世の人は一般に「知覚⇒記憶心象⇒観念」という進行を想定するが、これは間違っている。「私たちは観念から出発し、運動的図式にはまり込みながら聞こえる音に重なっていく力をもつ聴覚的記憶心像へと、その観念を発展させる。そこには、観念の雲が判明な聴覚的イマージュへと凝縮していき、聴覚的イマージュはなお流動的であるにしても、ついには物質的に知覚される音響と癒着して固まろうとする連続的な進行がある。」
私は、ベルクソンがいう聴覚体験の「三つの項」を一般化して、これらをパースの記号論と組み合わせると、「生の知覚=記号(レプリゼンタメン)」「観念(純粋記憶)=対象」「記憶心象(言語的イマージュ)=解釈項」という対応がなりたつのではないかと考えています。そして、少なくとも聖書や古今集の解釈・伝達・受容・編集のプロセスについては、第一項の「知覚」からではなく第二項の「純粋記憶」から、それも「純粋記憶⇒記憶イマージュ⇒知覚」という「記憶の現実化」の進行にそくしてこれを考察することが、(したがって、芸術表現や神話の世界を、小林秀雄のように「純粋知覚」の側から見るのではなく、「純粋記憶」の側から、「いにしへ」の側からこれを見ることが)、有効なのではないかと考えているのです。
さらに、私の「直観」が告げ知らせることを(吟味、論証抜きに)書き連ねておきます。
詞という姿で「思ひ」を詠みこんだ歌に「かたち」を与えるもの、すなわち「歌体」とは、ベルクソンが、「私たちの意識の内には、初発的筋肉感覚という形で、聴取される言葉[parole]の運動的図式ともいうべきものが進展する」と書き、「私たちが他人の発言[parole]をききながら、わかると思っている場合、何が起こっているかを意識に尋ねよう。私たちは、印象がイマージュを捜しにいくのを、受動的に待ち受けるだろうか。むしろ私たちは、あたかもまずもって自分の知的作業の調子を整えるかのように、対話者や、その語る国語[langue]や、その表現する観念の種類や、またとくにその語句の全般的運動につれて変化する或る種の準備態勢に身を置いているとは感じないであろうか。運動的図式は、彼の抑揚を強調し、その思想の曲折を克明にたどりながら、私たちの思想に道を示す。それは空虚な器であり、その形によって、流れ込む液体の向かっていく形を決定するのだ。」と書いている、その「空虚な器」としての「運動的図式」に相当するもののことなのではないか。
だから、個別の歌についてその歌体を云々することにはあまり意味がなく、様々な「思ひ」を詠んだ歌の連なりにおいて、とりわけ複数の歌を編みこんだ詞華集(対象O)という姿で、あくまで「純粋記憶⇒記憶イマージュ⇒知覚」のプロセスに即して歌の「かたち」を見ることにこそ、歌体論の意味があるのではないか。
■聲と文字、あるいは擬音語と擬態文字
いまひとつ、補足を加えます。
「運動的図式」をめぐるベルクソンの議論には、第10章で取りあげたラマチャンドランの(視覚と聴覚、異なる運動間の共感覚的対応にもとづく)言語起源説を想起させるところがあります。また、日本の歌論が語ってきた縁語や掛詞は「意識の運動をコントロールする仕掛け」であり、「和歌を味わうとは、言葉の舞踊に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである」と書いた尼ヶ崎彬氏(『縁の美学』あとがき)の議論や、和歌は「言葉でする演技」であるとし、枕詞・序詞・掛詞・縁語・本歌取りといった「和歌的レトリックは、声を合せることを詞で装う表現である」と規定した渡部泰明氏(『和歌とは何か』)の議論へと、(さらにいえば、マラルメやヴァレリーの舞踊論へと)、接続していくことができるものだと思います。
これらの論点については、いずれ、貫之現象学における「フィギュールとしての哥」を本格的に取りあげる際、必要に応じて立ち帰ることとして、ここでは、岡田暁生著『音楽の聴き方──聞く型と趣味を語る言葉』から、興味深い議論をひとつ引いておきます。
岡田氏は、同書の第二章「音楽を語る言葉を探す」で、リハーサルで指揮者が使う「身体感覚に関する独特の比喩」(たとえば、クライバーの「いきなり握手するのではなく、まず相手の産毛に触れてから肌に到達する感じで」など)に注目し、この「身体の共振を作り出す言葉」を、生田久美子氏の著書から借用した「わざ言語」(craft language)の概念で括っています。(岡田氏の紹介によると、日本舞踊の伝承において師匠たちが好んで使う、「指先を目玉に」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といった、単なる身体部位の一パーツの表面的な「形」の模倣ではなく、動作の根源にある身体全体の構えとしての「型」の感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩を、生田氏は、『「わざ」から知る』のなかで「わざ言語」と呼んでいる。)
そして、「音楽はいかなる感情も、いかなる情景も、絶対に表現することは出来ない」としたハンスリックの議論を紹介した上で、「だがハンスリックはこれらの記述において、まさに彼が躍起になって否定しようとしていたこと(=音楽は何かを表現する)を、極めて雄弁に肯定しているように思える。つまり運動感覚を通して音楽は、あらゆるものを極めて生々しく喚起するとも言えるのだ。」と書いています。以下、『音楽美論』(渡辺護訳)に記されたハンスリックの二つの文章(岡田氏が「これらの記述」として言及しているもの)を、岡田前掲書から孫引きします。
《[音楽は]感情に関して何を表現できるであろうか。ただ感情の動的なもの(dynamisch)だけである。音楽は物的な過程の運動を、早いとか遅いとか強いとか弱いとか、上昇的とか下降的とかのそれぞれのモメントに従い模倣することができる。》
《私が雪片の降り来るさまや鳥の羽ばたきや日の出のさまを、音楽的に画くことができるのは類推的な聴覚現象、つまりこれらの諸現象に力学的[ディナーミッシュ]な意味で似たところのある聴覚印象を私がもたらすことによってのみできる。音の高さや強さや早さやリズムを通じて耳に一つの「形[フィグール]」が与えられる。種々異なった種類の感覚の間を互いに接触することのできる類推[アナロギー]によってこの「形[フィグール]」の印象が一定の視覚的な知覚をうるのである。》
これを読んで、私が想起したのは、「言語はいかなる場合でも、伝達可能なものの伝達であるだけにとどまらず、同時に伝達不可能なものの象徴でもある」、また「名前…がたんに伝達する機能のみならず、伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有していることは、きわめて確かなことである」という、「言語一般および人間の言語について」の第二五段落に記されたベンヤミンの文章、とりわけそこに出てくる「象徴」という言葉をめぐる、細見氏の解読です。これもまた、「フィギュールとしての哥」に取りくむ際、とても重要な論点になると思うので、細見前掲書から、その全文を抜き書きしておきます。
《「名前」が「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能をも有している」というのは、当然のことと思われるかもしれない。しかし、これがやはりかなり特異な発想であることをふたたび確認しておきたい。ランプを例にとれば、まさしく「ランプ」という名前・呼称に、伝達不可能なものとしてのランプの精神的本質の「象徴」を見て取ろうとする態度だからである。ここで「ランプ」という音ないし文字はランプを指すたんなる記号であってはならない。「ランプ」という音はランプという存在の、いわば擬音語であり、さらには擬態語、擬態文字でなければならないのである。
この傾向をもっとも顕著に示しているのが、一九三三年に書かれた「類似したものについての試論」であり、その続稿ないし改定稿として成立した「模倣の能力について」である。そこでベンヤミンは、そもそもすべての音声言語を擬音語として理解する方向を示すとともに、文字を「非感性的類似の貯蔵庫」と呼んでいる。擬音語が外的に理解しやすい「感性的類似」にもとづくのにたいして、擬態語は、さきに「のしのし」の例で見たように、そのままでは類似を見て取ることのできない「非感性的類似」にもとづいているのである。そして、文字が「非感性的類似の貯蔵庫」であるということは、すべての文字はそもそも擬態文字であるということだ。
このあたりもまたベンヤミンのもっとも難解であるとともに捨てがたい魅力をなしているところだが、少なくとも作家や詩人が「ランプ」と書くか、「灯り」と書くかで迷う場合、そこではたんなる「記号」を超えた次元で言葉が問われている、と言うことはできるはずだ。「ランプ」と「灯り」をたんなる記号としてのみ捉えるなら、どちらでもいいことになるからだ。私たちが「語感の違い」などという言い方で通常安易に了解している要素とは何なのか。それは記号論で言われるコノテーションの違いという枠内には収まらない問題だと思える。そこで問われているものこそ、まさしく「ランプ」ないし「灯り」という言葉、さらには文字の、「伝達機能と密接に結びついた象徴的機能」のことではないのか。そのように問いなおすことができるだろう。》
■パース三体、再び
それにしても、「ベンヤミンのアクロバティックなまでにスリリングな思考」の奥深く、「テクストにルーペを押しあてるようにして」分け入っていく細見氏の手腕は実に鮮やかで、かつ、示唆と刺激に富んでいます。その方法は、すでにふれたように、ベンヤミンの言語論を芸術表現の場面において具体的に読み解いていくというものでした。もっと一般的にいえば、「通常の記号論的な発想をむしろ芸術表現に置きなおすとベンヤミンの言語思想が理解しやすい」というアイデアにもとづくものです。
私はこれから、「ラカン三体」と「パース十体」の名のもと、貫之や定家が詠んだ具体の歌を素材として、古典和歌における歌体論をめぐる「自分なりの論」を模索していくつもりなのですが、それに先立ち、(そして、多くの事柄を言い残したまま、あるいは、星座的=機械状に連結することなく放置したまま、「序」の舞を終える前に)、細見氏のアイデアに倣って、「ラカン三体」とも密接な関係がある「パース三体」を、芸術制作の現場に引き寄せて理解するための手がかりを得ておきたいと思います。
「パース美学」の可能性については、谷川渥氏が、『美学の逆説』に収められた「記号論としての美学──パースにおけるイコン論の成立と展開」で、パースの三つの記号のうちの「イコン」にそくして探究しています。同書にはまた、イマージュの概念に着目して「ベルクソン美学」をひとつの表現論としてとらえた「直観と表現──ベルクソン美学の構造」も収録されています。いずれも、多くのヒントがちりばめられた魅力的な論考なのですが、しかしここでは、これらとは別の補助線を引きます。それは、淺見圭司著『映ろひと戯れ──定家を読む』のあとがきに記されているものです。
淺見氏は、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋のゆふくれ」をめぐって、次のように書いています。いわく、この歌は、「見わたす」主体と「見わたされる」対象(客体)の対立と緊張関係をその根柢にもっている。しかし、「見わたされる」対象は現実の光景ではなく、「花」「紅葉」「浦」「苫屋」「秋」「夕暮」という、「歌語の体系」あるいは「感性的言語の体系」とでもいうべきものから選び取られ、配列された語によってかたちづくられた(現し出された)、独自の感性的性質ないし「イメージ」にほかならず、また、「見わたす」主体は、現実的状況のなかで悩み、苦しみ、不満をもらす現実的存在なのではなく、美的世界でのみ生きることを選択した歌人(美的実存)であるとみなすことも、たしかに可能だろう。
ここに出てくる二つの項、すなわち、芸術制作にかかわる「対象」と「主体」について、淺沼氏は、制作において対象的契機が主体的契機に優越する場合を「模倣」と、対象的契機と主体的契機が同等の立場で緊張関係を形成する場合を「表現」と、そして主体的契機が対象的契機に優越する場合を「表出」と捉えたうえで、そこに第三の項としての「媒体」(もしくは「質料」、「材料(マティエール)」)を導入し、媒体的契機の(他の二つの契機にたいする)優越をめざす「もうひとつの制作」の可能性(「具体的には、視覚的性質──線、形態、色彩──そのものにたいする反省と、その特性の探究を目的とする絵画的制作、あるいは言語にたいする反省と、そのものとしての言語の実現──たとえば、日常的使用のなかで覆いかくされた言語本来のすがたの開示──をくわだてる詩的制作、など」)を考察し、そのような制作のあり方に「引用」の名を与えます。
《定家の歌が、イメージによるイメージとして、ある種の自己言及性を、そしてメタ・イメージ(メタ言語)的な性質をもっており、通念的な「対象─主体」関係がそこでゆらいでいることは明らかであった。定家が、その歌と歌論の双方において、「本歌取」の技法にたいしてもっとも自覚的であったことは、おそらく否定しえない。そして「本歌取」は、既存の「歌語の体系」──歌の総体──から特定の「詞」(語ないし句)を任意に選択し、切り取り、それらの「詞」を任意に配列することによって、あたらしい統一的なコンテクストを形成することにほかならず、その点で「引用」として捉えられるものであった。短絡的に結論を急ぐことは避けなければならないが、通念的な──「対象─主体」関係を根柢においた──制作の枠組内のもろもろの技法のひとつとしての引用ではなく、その枠組を逸脱した、もうひとつの制作そのものとしての「引用」が存在すると考えることには、相応の根拠があるのではないだろうか。対象的契機と主体的契機のいずれかにたいして、あるいはその双方にたいして、媒体(マティエール)の透明化をくわだてる制作(技法)とは別の、対象的契機と主体的契機のいずれをも可能なかぎり媒体的契機の背後に消滅させることをくわだてるもうひとつの制作(技法)としての「引用」。》
私は、淺沼氏がいう「主体/対象/媒体」を、パース記号論の「記号(レプリゼンタメン)/対象/解釈項」に、より根柢的には、パース現象学の「第一次性/第二次性/第三次性」(パース三体)に、(さらには、丸山圭三郎氏が『言葉と無意識』で、「欲動/深層のパトス/表層のロゴス」になぞらえたラカン三体に、ひいては、貫之の「よろづ/人のこころ/ことのは」もしくは「物/心/詞」に)、それぞれ関連づけて考えることで、(狭義の)貫之現象学の世界を読み解いていく手がかりをうることができはしまいかと考えています。
そして、淺沼氏の三項関係のうちの第三のものである「媒体」を、ベンヤミンの「媒質」(としての言語)の概念に関連づけ、そこに、「神」もしくは「絶対的なもの」の方へ向かう垂直次元の運動を導入すことで、淺沼氏が提示した「表出」「表現」「模倣」「引用」という芸術制作の四つの技法の位置関係を見きわめることができはしまいか、(それはおそらく、「空虚な器」としての歌体がもつ「運動的図式」をあらわすもの、たとえば、「物」「心」「詞」「姿」の四つの項からなる「哥の伝導体」のごときものになっていくのではないか)、さらに、俊成、定家を包摂した(広義の)貫之現象学の世界を解明する手がかりをうることができはしまいかと考えているのです。
(10号に続く)
★プロフィール★
中原紀生(なかはら・のりお)1950年代生まれ。兵庫県在住。千年も昔に書かれた和歌の意味が理解できるのはすごいことだ。でも、本当に「理解」できているのか。そこに「意味」などあるのか。そもそも言葉を使って何かを伝達することそのものが不思議な現象だと思う。
ブログ「不連続な読書日記」・HP「オリオン」
Web評論誌「コーラ」09号(2009.12.15)
<哥とクオリア>第13章 ラカン三体とパース十体(序)(中原紀生)
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