KUNIKO KATO 加藤訓子/BACH - SOLO WORKS FOR MARIMBA

KUNIKO KATO 加藤訓子
BACH - SOLO WORKS FOR MARIMBA

加藤訓子ソロアルバム第4弾、"マリンバ版バッハ"が登場
書き下ろし日本語解説付き、LINNならではの超優秀録音盤
SACDハイブリッド盤2枚組・マルチチャンネル・ヴァージョンは、日本向け完全限定生産盤
【お知らせ】WEB初回入荷分は完売しました。再入荷次第販売を再開いたします。(※2017年6月9日現在)
※限定品につき、完売の際は何卒ご容赦ください。
「クニコ・プレイズ・ライヒ(kuniko plays reich)」、 「カントゥス(Cantus)」、 「IX ~ ク セナキス(Xenakis: IX) 」と世界的な大ヒットが続いた、日本を代表するパーカッショニス ト、加藤訓子。スコットランドのハイエンド・オーディオ・メーカー、LINNが技術の粋を結集 させて作るアルバム第4弾は、J.S.バッハの音楽です。
バッハのソロ作品のなかから、加藤訓子自身の「この曲を弾きたい、聴きたい」という観 点で、「無伴奏チェロ組曲」の1・3・5番と「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」の全3曲、「平均律クラヴィーア曲集第1巻」から第1番の前奏曲、リュートのための前奏曲を選択し、マリ ンバ独奏のために編曲。
加藤訓子が「究極のミニマリズム」と称するバッハの音楽は、「ライ ヒ」、「ペルト」、「クセナキス」を上回る大きな衝撃を与えてくれることでしょう。 (資料提供:東京エムプラス)
※LINNの日本における代理店・東京エムプラスより供給される当アルバム「CKD 586S」は、SACD Hybrid Multichannelヴァージョン(2SACD)となっており、日本向けの完全限定生産盤です。 海外で発売される商品はノーマルCD盤(2CD)となります。

【収録内容】
J.S.バッハ:マリンバのための 無伴奏作品集
DISC1
[1] 平均律クラヴィーア曲集第1巻より、前奏曲ハ長調 BWV846
[2] 無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007
[3] 無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調 BWV1009
[4] 無伴奏チェロ組曲第5番ハ 短調 BWV1011(無伴奏リュート組曲第3番 BWV995)
DISC2
[1] リュートのための前奏曲ハ短調 BWV999
[2] 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調 BWV1002
[3] 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調 BWV1003
[4] 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調 BWV1005
【演奏者】
加藤訓子(マリンバ)
【録音】
2015年9月1日-11日&2016年3月14日-24日、ヤンニ教会(タルトゥ、エストニア)

Disc 1
1. PRELUDE IN C,BWV846
2. SUITE FOR SOLO CELLO NO.1 IN G,BWV1007
3. SUITE FOR SOLO CELLO NO.3 IN C,BWV1009
4. SUITE FOR SOLO CELLO NO.5 IN C MINOR,BWV1011(LUTE SUITE NO.3,BWV995)
Disc 2
1. PRELUDE FOR LUTE IN C MINOR,BWV999
2. SONATA FOR SOLO VIOLIN NO.1 IN G MINOR,BWV1001
3. SONATA FOR SOLO VIOLIN NO.2 IN A MINOR,BWV1003
4. SONATA FOR SOLO VIOLIN NO.3 IN C,BWV1005
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『スピノザ往復書簡集』(畠中尚志訳)

スピノザ往復書簡集 (岩波文庫)

「卓越の士、敬愛する友よ」なんていう呼びかけではじまるメールを一度でいいからもらってみたい。

これはスピノザがさまざまな人々と交わした書簡のうち現存する84通をあつめたものだ。当時は書簡が学術雑誌の代わりをしていたらしく、回覧したり、出版する目的で残されていたらしい。だから、内容もスピノザの思想に関する質問とその回答がほとんどだったりする。スピノザの数少ない著作からだけでは判断できない細部に触れていて、それはそれでとても価値があるものだけど、文章の端々や行間にあらわれるスピノザの人柄や生活態度に興味をひかれる。

温厚で慎重で思慮深い。生活ぶりも質素で、友人が遺した年金や大学教授の職を辞退したりしている。ただし、自分の思想には絶対の自信をもっていて、熱くストレートに教えを説いている。その自信がどこからくるかというと、自分の理性に対する絶対的な信頼だ。スピノザは経験を繰り返しても真理に至ることはできず、理性を突き詰めることによって明瞭に真なものを認識できると考えていた。

宗教的な奇跡を認めず、神や人間の行動を含めてすべてが必然であることを説く、スピノザの思想は、キリスト教の強い影響下にあった当時の社会ではほとんど理解されず、無神論と蔑まれ、危険思想扱いされていた。書簡からそういう空気を十分うかがうことができる。スピノザの門弟だった人が二人までも、のちにカトリック教会に入信し、スピノザを悪魔呼ばわりし、改悛を求める書簡を送ってきている。

当時は言葉のおよぼす力が強大だと思われていたということであり、逆説的にいうと、幸せな時代だったのかもしれない。現代では、言葉は大量生産のゴミにまじって、ほとんど何の価値もなくなっている。誰も、書いた言葉のために火あぶりにされることはないが、相対化という波にさらされて言葉はさびつくしかない。いや、スピノザでさえ、ほとんどの人間を説得できなかったし、門弟に離反されてもいる。ロゴス=言葉=理性は常に敗北を義務づけられているのかも知れない。

だが負けても負けても、理性以外ぼくらが頼れるものは何もない。もちろん、理性も間違えるけど、その間違いを認識するのもまた理性なのだ。それに、300年以上前のコネも権威もないオランダの哲学者が交わした手紙がまだ残っていて、それを日本語で読めるということは、理性の勝利といえないだろうか。もちろん連戦連敗の中の極めて小さな勝利だが。

アナザーストーリーズ「落語を救った男たち 天才現る!古今亭志ん朝の衝撃」

1961年、古今亭志ん生倒れる!それは落語の静かな危機だった。それを救ったのが天才・志ん朝。伝説の素顔を落語家たちが“あの”語り口で明かす、笑撃の真実!

1961年暮れ、古今亭志ん生倒れる!居眠りをしても客が喜んだ男が病に倒れた時、落語は衰退の危機を迎えた。娯楽が多様化し、演芸場は閉鎖。それを救った天才が古今亭志ん朝。圧倒的な話芸は今なお伝説。だがその素顔は驚くほど知られていない。とびきりシャイで、取材を好まなかったためだ。今回、ライバル立川談志をはじめ、関係者の証言で知られざるエピソードを発掘。落語家たちが“あの”語り口で振り返る、笑撃の真実!

出演者ほか【司会】沢尻エリカ,【出演】鈴々舎馬風,桂文楽,川戸貞吉,京須偕充,立川左談次,毒蝮三太夫,林家正蔵,足立秀夫,立川キウイ,【語り】濱田岳

■トマス・アクィナスのヴィジョン

カソリック神学のご本尊ともいうべき聖トマス。天使博士とも呼ばれたトマス・アクィナスは圧倒的なビジョン=ヒエロファニーを見て、主著『神学大全』を断筆した。
1273年12月6日、聖ニコラウス聖堂でミサを捧げている最中に衝撃の体験をした。

「兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに較べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事をおえて、ただ終わりの日を待つばかりだ」

第三部までの書きかけの重要な著作の放棄を迫った、大変化とはどのようなものかをトマスは書き残してくれなかった。これ以降、ドミニコ修道会の同僚も親族も友人たちも彼の魂の内奥に接することができなくなった。
そして、1274年3月7日に多産で多忙でありながら、深い信仰に満ちたその生涯を閉じた。49歳であった。

キリストの教えを信奉しながらも、もはや理知的なる神への接近法が無意味となってしまうような体験というのは、よほどのものであったのだろう。よく知られているようにアリストテレスの哲学をキリスト教に持ち込もうという壮大な構想をもとに『神学大全』は執筆中だった。
まさにこの逸話があるがゆえにトマス・アクィナスは自分の関心の的になる。

かの『神学大全』がわらくずになってしまうような最後のビジョンはいかなるものであったのか?
それについての外延的な手がかりをさぐっておきたい。

自分の仮説は「人はその生涯の精神的な営為の結果を末期の際で垣間見る」である。

例を示そう。
聖人の他事例としては、聖テレジアの最期の言葉が思い出される。

わたしがこれから行く世界のまばゆい、荘厳な光景が、神々しい輝きに
つつまれて、わたしの魂の上で閃光を放ち、ただよっている。

澁澤龍彦の病床日誌である。
「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」だ。重度の喉頭癌の摘出手術で澁澤は下顎部の大半を喪う。その外科手術後の麻酔がもたらした異様なビジョンを彼は克明に記している。
それはまさに幻想文学や異界などマージナルな領域を追求してきた異形の文学者にふさわしい内容であった。
医学が発達していない時代であれば、その記録を残さぬままに世を去ったであろうが、幸いにも再び生還した澁澤龍彦は奇怪な幻影のドキュメントを我らに贈ってくれた。


少々マイナーかもしれないが、20世紀の演出家の例だ。フローレンツ・ジーグフェルドというアメリカ人だ。

幕をあげろ! テンポの速い音楽! 照明! 最後のフィナーレの用意! よし!
素晴らしいショーだ! 素晴らしいショーだ!

ここまで近代の事例になると現代人は、これはビジョンではなく、現実とうつつが区別できなくなった病人の混濁状態であるという理解に落ち着いてしまう。それはみすぼらしい理解の仕方であるにせよ、現代的な了解の仕方ではある。


フッサール、現象学の創始者ともなると「私は今、素晴らしいものを見た。ペンと紙を」と言って息絶えたりしている。
フッサールは意識内容の隅々にまでいたる精細な観察と分析に生涯を捧げた。その見返りにこの偉大な学者が受けた啓示というのは不立文字のままとなった。
先の演劇人と何が違うだろうか?

これを小説においてモデル化したのは前世紀の文学者にして、「人間喜劇」の創造者バルザックの描く人物である。『絶対の探求』のバルタザール・クラースはフッサール到来の予言であったかもしれない。

かくて、末期の一句を博捜するならなば、人はそれなりの応報的な境地に到達しているのが例証されているようでもある。

では、トマスが探求したキリスト教の信仰と理性の世界から、ビジョンとして到来しそうなのは何なのだろうか?
トマスの主要な著作、言い換えればその知的探求の意図は「神の統治する天上世界」を理性でもって理解可能なものにすることと自分は想像する。トマスの発想の根源であり、その意図を素朴に主張したのが出所不明な偽ディオニシウスの『天上階級論』だと憶測する。

トマスの天使への言及の異様な多さはこれを物語る。
「聖なるかな、聖なるかな、聖の聖なるかな」
と神を褒め称える天使の円舞と階層的序列、それははるか人間界までおよぶ。つまり、全宇宙があげて神を賛美する、そうしたビジョンが最後にトマス・アクィナスの眼前に降臨したのだろうというのが自分の仮説である。

ドレが描いたダンテのビジョン。トマス・アクィナスの見たのはこのような世界だったかもしれない。ダンテは遅れてやってきた聖トマスといえなくもない。お互いに同じイタリアの精神史に出現した偉大な精神である。トマスの後、200年後に出現した幻想気質の詩人だ。

トマス・アクィナスの「わらくず(藁屑)」発言

トマス・アクィナスは1273年12月6日、聖ニコラウス礼拝堂でのミサ中に何らかの体験をし、その後、執筆も口述も絶った。このため『神学大全』は第三部の聖体の秘跡の項から悔悛の秘跡の項に移ったところで中断され未完となる。兄弟僧レギナルドゥスがなぜ著作を続けないかと尋ねたところ、「私が見たものにくらべれば、私がこれまで書いたものはすべてわらくずのように見えるからだ」と答えたと伝えられている。
以後、この発言に対して様々なことが言われてきた。それはまず、アクィナスが実際に何を「見た」のか、ミサ中に何があったのかという体験に関してのことである。稲垣良典はS=タグヴェルの節を敷衍して、パウロが「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(第一コリント 13:12)という言葉で指示しているような「神の直視」のことではないかと推測している(稲垣良典『トマス=アクィナス』、清水書院、1992年、p.191)。そうした神秘主義的解釈を認めたうえで、仕事のしすぎで生じた脳腫瘍のような何らかの疾患による物理身体的原因を示唆する人もいる(Thomas F.O'Meara,O.P.,Thomas Aquinas Theologian,Notre Dame,Notre Dame Press,1997,p.31)。
仮に何らかの神秘体験をしたとしても、それが断筆の主原因とは考えがたい。なぜなら、同様の(あるいはそれ以上の)神秘体験をしたと見られる諸聖人がみな、アクィナスと同じ行動をとったわけではないからである。それゆえ、断筆の主原因は病気によるものではないかと思う。
しかし、いずれにせよ体験そのものについては結局憶測の域を出ないのだから、問題として重要なのはむしろ、この言葉の解釈の方だ。非常によくあるのは、この言葉を「神学の限界」と見なすことである。もちろん、文字通りにはその通りなのだが、ここから神や信仰に対する言語による知的作業をすべて無意味と見なし、「神学無用論」まで行きつく者がいるが、それはあまりに極端過ぎる。神学、あるいは人間の知の営みが、神の神秘を把握し尽すことなどできない、というだけのことなら、アクィナスはこの発言以前に既に表明している(たとえば『神学大全』第一部第三問序文「われわれは神について、その「何であるか」を知りえず、ただ「何でないか」を知りうるのみである」(山田晶訳))。Josef Pieperなどは、こうした否定神学的態度を『神学大全』にもともと内在する断片的(非組織的)性質とし、件の発言をそれをはっきりとした形で言い表したものだと見なしている(Josef Pieper,Guide to Thomas Aquinas,San Francisco,Ignatius,1991,pp.158-160)。
「わらくず」発言そのものは、たしかに神学に対する何らかの否定性の表明なのであるが、それを単純に「神学の否定」と見なすよりも、否定的な形での肯定性の表現だと見なす方が、アクィナスの全神学に対する評価としては相応しいのではないか。Pieperが言うように、アクィナスの神学に対する限界の意識は、決して「反知性主義」に結びつくわけではないのだから。
現教皇ベネディクト16世がある説教(国際神学委員会総会閉会ミサ説教(2006/10/6))において、この「わらくず」発言について興味深い考察をしているので、見ておこう。
ttp://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/homilies/2006/documents/hf_ben-xvi_hom_20061006_commissione-teologica_en.html

聖トマス・アクィナスは、長い伝統を踏まえて、神学において神は私たちの語る対象ではない、と言います。これは私たち自身の規範的考えです。
事実、神は神学の対象なのではなく、神学の主体です。神学を通して語る主体、それは神でなくてはなりません。私たちの言葉と思想は常に、神の語ること、神の言葉が世界において聞かれ場所を持つことを保証することに役立つのでなければなりません。
それゆえ、あらためて私たちは、自らの言葉を捨てること、純化の過程へと招かれていることを知ります。それによって私たちの言葉は神が語りうるための道具に過ぎなくなり、その結果、真に神が神学の客体でなく主体となるのです。
この文脈から、聖ペトロの第一の手紙の美しいフレーズが心に浮かびます。第1章22節です。「あなたがたは真理への従順のうちにその魂を浄めています」(Castificantes animas nostras in oboedientia veritatis)。真理への従順はわたしたちの魂を必ず「浄め」、そうして、私たちを正しいことば、正しい行いへと導きます。
別の言い方をすれば、一般に流通している意見の指示に従い、人びとが聞きたいと思っていることに支配されて、称賛を受けることを期待して語ることは、一種の、言葉と魂の売春と言えます。
使徒ペトロがいう「浄め」は、このような基準に従うこと、称賛を求めることではなく、むしろ、真理への従順を求めることです。
(中略)
神の偉大さの前で私たちは沈黙します。私たちの言葉が取るに足りないものだからです。このことは聖トマスの生涯の最晩年を想起させます。人生最期の時、彼はもはや何も書かず、何も語りません。友人が「先生、なぜもはや何も語らないのですか? なぜ何も書かないのですか?」と尋ねました。彼は言いました、「私が見たものに比べたら、今や私のすべての言葉はわらくずに思える」。
偉大な聖トマス専門家、ジャン=ピエール・トレル神父は、この言葉を間違って理解しないようにと教えてます。藁とは無のことではありません。藁は麦の実をつけます。このことは藁にとって大変価値あることです。言葉の藁でさえ価値あるものです。麦を生むからです。
しかしながら、私が言いたいのは次のことです。これは私たちの仕事を相対化するものです。しかし、同時にそれは私たちの仕事を評価するものです。それは、私たちの仕事のやり方、私たちの藁が真実に、神の言葉という麦をつけるための指示でもあるのです。

教皇ベネディクト16世によれば、アクィナスの「わらくず」発言は、神学それ自体の否定というよりも、ある種の神学的姿勢の否定と理解できる。否定されるべきなのは、神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営みであって、神学そのものではない。アクィナスの「沈黙」は、神についての言葉による知的作業の全否定などではなく、むしろ、神学が神を前にして本当に価値ある言葉を紡ぎ出すために必要な条件なのである。

(文責・金田一輝)
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