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■トマス・アクィナスのヴィジョン

カソリック神学のご本尊ともいうべき聖トマス。天使博士とも呼ばれたトマス・アクィナスは圧倒的なビジョン=ヒエロファニーを見て、主著『神学大全』を断筆した。
1273年12月6日、聖ニコラウス聖堂でミサを捧げている最中に衝撃の体験をした。

「兄弟よ、私はもうできない。たいへんなものを見てしまった。それに較べれば、これまでやってきた仕事はわらくずのように思われる。私は自分の仕事をおえて、ただ終わりの日を待つばかりだ」

第三部までの書きかけの重要な著作の放棄を迫った、大変化とはどのようなものかをトマスは書き残してくれなかった。これ以降、ドミニコ修道会の同僚も親族も友人たちも彼の魂の内奥に接することができなくなった。
そして、1274年3月7日に多産で多忙でありながら、深い信仰に満ちたその生涯を閉じた。49歳であった。

キリストの教えを信奉しながらも、もはや理知的なる神への接近法が無意味となってしまうような体験というのは、よほどのものであったのだろう。よく知られているようにアリストテレスの哲学をキリスト教に持ち込もうという壮大な構想をもとに『神学大全』は執筆中だった。
まさにこの逸話があるがゆえにトマス・アクィナスは自分の関心の的になる。

かの『神学大全』がわらくずになってしまうような最後のビジョンはいかなるものであったのか?
それについての外延的な手がかりをさぐっておきたい。

自分の仮説は「人はその生涯の精神的な営為の結果を末期の際で垣間見る」である。

例を示そう。
聖人の他事例としては、聖テレジアの最期の言葉が思い出される。

わたしがこれから行く世界のまばゆい、荘厳な光景が、神々しい輝きに
つつまれて、わたしの魂の上で閃光を放ち、ただよっている。

澁澤龍彦の病床日誌である。
「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」だ。重度の喉頭癌の摘出手術で澁澤は下顎部の大半を喪う。その外科手術後の麻酔がもたらした異様なビジョンを彼は克明に記している。
それはまさに幻想文学や異界などマージナルな領域を追求してきた異形の文学者にふさわしい内容であった。
医学が発達していない時代であれば、その記録を残さぬままに世を去ったであろうが、幸いにも再び生還した澁澤龍彦は奇怪な幻影のドキュメントを我らに贈ってくれた。


少々マイナーかもしれないが、20世紀の演出家の例だ。フローレンツ・ジーグフェルドというアメリカ人だ。

幕をあげろ! テンポの速い音楽! 照明! 最後のフィナーレの用意! よし!
素晴らしいショーだ! 素晴らしいショーだ!

ここまで近代の事例になると現代人は、これはビジョンではなく、現実とうつつが区別できなくなった病人の混濁状態であるという理解に落ち着いてしまう。それはみすぼらしい理解の仕方であるにせよ、現代的な了解の仕方ではある。


フッサール、現象学の創始者ともなると「私は今、素晴らしいものを見た。ペンと紙を」と言って息絶えたりしている。
フッサールは意識内容の隅々にまでいたる精細な観察と分析に生涯を捧げた。その見返りにこの偉大な学者が受けた啓示というのは不立文字のままとなった。
先の演劇人と何が違うだろうか?

これを小説においてモデル化したのは前世紀の文学者にして、「人間喜劇」の創造者バルザックの描く人物である。『絶対の探求』のバルタザール・クラースはフッサール到来の予言であったかもしれない。

かくて、末期の一句を博捜するならなば、人はそれなりの応報的な境地に到達しているのが例証されているようでもある。

では、トマスが探求したキリスト教の信仰と理性の世界から、ビジョンとして到来しそうなのは何なのだろうか?
トマスの主要な著作、言い換えればその知的探求の意図は「神の統治する天上世界」を理性でもって理解可能なものにすることと自分は想像する。トマスの発想の根源であり、その意図を素朴に主張したのが出所不明な偽ディオニシウスの『天上階級論』だと憶測する。

トマスの天使への言及の異様な多さはこれを物語る。
「聖なるかな、聖なるかな、聖の聖なるかな」
と神を褒め称える天使の円舞と階層的序列、それははるか人間界までおよぶ。つまり、全宇宙があげて神を賛美する、そうしたビジョンが最後にトマス・アクィナスの眼前に降臨したのだろうというのが自分の仮説である。

ドレが描いたダンテのビジョン。トマス・アクィナスの見たのはこのような世界だったかもしれない。ダンテは遅れてやってきた聖トマスといえなくもない。お互いに同じイタリアの精神史に出現した偉大な精神である。トマスの後、200年後に出現した幻想気質の詩人だ。
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