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『改訂版 パースの思想――記号論と認知言語学』有馬 道子 (著)

改訂版 パースの思想――記号論と認知言語学 単行本 – 2014/2/28
有馬 道子 (著)

精神と物質は連続する?
投稿者 カーマイン 投稿日 2017/5/20


 2001年の本を2014年に改訂したもの。著者は京都女子大学文学部教授。チャールズ・S・パースは、現代記号論の先駆者といわれる哲学者である。
 曰く・・・
 パースの記号論は、対象と記号と解釈項という三項関係の記号論である。対象と記号とをつなぐ解釈項があり、記号の意味をになう解釈項はそれ自体が新しい記号となってそれと対象をつなぐもう一つの解釈項を生むことで、三項関係が無限に生ずる。
 まず、「質」はそれ自体として存在する第一次性(一項)であり、それによって第二次性としての対象が指し示されることによって「関係」が生じ、こうしてできた第一次性と第二次性を結びつけるのは第三次性としての「媒介」の働きによるものである。
 第一次性というのは他の何ものにも頼らずにそれだけで存在するものであり、感情、質、カオス、法則化が生じる以前の偶然性、精神(Mind)(神ともよばれる存在エネルギー)であり、第二次性は他の何かとの関係においてはじめて生ずるということであり、反作用、遺伝、法則、物質であり、第三次性は第一次性と第二次性を結びつける媒介をするということであり、一般性としての概念、媒介的約定性、偶然的なものが定着する過程としての習慣化への傾向、進化発展である。
 その昔、宇宙には特定の個人のものではない他のなにものとも結びつかず、したがって存在をもたないような「感情」だけが不定の偶然性としてあり、それが芽(種)となって一般化の傾向が生じ、次第に習慣化し、法則化してきたものの、そこにはなお偶然性がつねに含まれている。
 物質とよばれているものは、完全に死んでいるのではなく、その習慣性に強く縛られて自発的な動きの余地の少なくなった状態の精神にすぎない。物理的出来事は精神(psyche)の出来事の未発達なかたちにすぎず、物質(matter)は精神のある特別なかたち(specialization of the mind)にすぎない。
 すべての精神は多かれ少なかれ物質の性質をもっている。外から見れば物質にみえ、内からみれば意識にみえる。
 精神と物質はシネキズムによって連続しており、したがって物質は強く習慣化された精神にすぎない。
 物質主義は物質がすべてという学説であり、観念論は観念がすべてという学説であり、二元論は何でも二つに分けるという学説である。すべてを連続しているとみなす傾向を「シネキズム」と定義している。
 死んで肉体の意識がなくなると、私たちはそれまで違った何かと混同していた生き生きとした霊的意識をそれまでもずっともっていたことにすぐ気づくことになるだろう。シネキズムは宗教ではなく、純粋に科学的な哲学であるが、それがいつか一般に受け入れられるときには(そのような時がくることを確信している)、そのときはシネキズムは宗教と科学を一つに結ぶ役割を果たすだろう。
 中国では「和」の語源的意味は、「口を合わせること、声を合わせること」であり、自分を失わず他と協調するという意味。日本では独自の発展をとげ、「自己主張しすぎないこと」「自分を殺して他と同調すること」となり、更には、「社会に溶け込むこと」「自然と一体化すること」となった。和語の「わたくし」は「我尽」からきたという説もあり、これは、滅私を意味する。
 緊張解除の記号としての微笑は、難問やリスクがもはや敵ではなく、それらとの連続性が達成され、自分と同化されたことを示す。声を立てて笑う場合というのは、通常、より大きな緊張と同化できたときであり、それはより大きな緊張解除の表現であることが多い。
 ノンセンスの笑いもまた、常識としての社会的習慣性との「ずれ」を解釈によって常識という習慣性と同化できたときに生ずるある種の安心としての緊張解除の表現なのではないか。
 意識の最深部に位置づけられる意識・存在のゼロポイントは、表層から深層に下っていった意識が最終的にたどり着くところであり、同時に、そこからすべてが発する源でもある。この存在のゼロポイントは、禅では絶対無・分節的無の一者としてとらえられる。
 存在のゼロポイントの上層にある言語アラヤ識とは、意味的エネルギーとしての潜在的コトバである種子(しゅうじ)の溜まり場。種子とは、心の深部に働く、明確な分節性のない「呟き」のようなコトバのこと。
 言語アラヤ識の種子には本源的なイメージ喚起作用があり、それが文字象徴論に発展すると空海の阿字真言、イスラームの文字神秘主義等のかたちをとるのだろう。こうした言語アラヤ識の「元型」イメージ喚起作用によって生じたイメージの織りなすものに「マンダラ」とよばれる深層意識的図柄がある。
 私という個人の存在は虚妄であるという教えほど高い香気を放っているものはない。自分を愛し、隣人を愛してこなかった人びとは、自分も隣人もしかとは存在せず、彼らがもとうとしなかった愛こそがあらゆる香気のもとであったという真実が明らかにされるとき、四月バカにされていたことに気づくだろう(パース)。個人という存在は新陳代謝的に変化し続ける「場」にすぎず、深層に下りていけばカオスの海で一つに融けあっているということになるのだろう。
 ニーチェは荘子に近いところがある。ニーチェもまたカオスとしての生を小児のようにそのまま肯定することを重視する。ニーチェの場合、世界をはなれて己の世界を獲得する創造という能動的な遊技のために小児のような無垢と忘却を必要とする。その点において、ニーチェは老荘の無為とは対象的である。
 老子においては、宿業という罪の意識も弥陀の本願に依存するという(親鸞のような)媒介も必要とせず、ただ実在としての「道」の自然性を全面的に肯定する。老子は道を水にたとえる。
 老子の「道」は形あり声あるすべてのものが根源的に還ってゆく実在であり、そこにはすべてをあわせのむ始源というやや静的な歴史的イメージがある。荘子においては、流転してやまない変化そのものが「道」であるという動的なイメージがある。遡っていったところにあるというよりは変化してやまない現在そのものであり、そこに人為的なはからいを施すことなくそれをそのまま無心に受け入れるところに道があるということなのだろう。
 などなど
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