偽文書が決定した対日認識 「田中上奏文」を考える

偽文書が決定した対日認識
「田中上奏文」を考える
日本は世界征服の野望を抱いている――こんな荒唐無稽の偽文書が、中国から米国に渡り、日本嫌いのルーズベルトの政策判断に確信を与え、さらには戦後の東京裁判の基本構図として採用されるまでに至った。いかに事実無根の文書と言えども、こうした事実を忘れてはならない。

◆黙って見過ごせないウソ
この夏、ある方からアメリカのテレビ番組のビデオテープをお送りいただいた。それは米国の戦史を証言を交えながら紹介する、一見まじめな歴史番組のシリーズなのだが、そのなかに南京事件が取り上げられていた。見てみると、なんと、あのアイリス・チャンがあたかも当時の証言者のような顔をして登場し、例の『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の内容を紹介しながら日本人の残虐性を語っていたのである。
日本軍は南京で三十万以上の中国市民を虐殺し、八万人をレイプした――アイリス・チャンが『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』で書いた「南京大虐殺」説は、事実無根であることは既に内外の専門家によって明らかにされている。その意味で、『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』は、一種の偽書と言ってもよく、相手にするのもばかばかしいのだが、しかし、このように米国のメディアによって権威付けられてチャンの主張が巷間に流布しているという事実を見せられると、黙って見逃すわけにはいかないと思うのである。
というのは、戦前、中国で作られた偽文書が、米国で反日世論作りに利用され、さらには米国の対日政策にまで影響を及ぼしたケースがあるからである。いわゆる「田中上奏文」のケースである。
今年春から、産経新聞が連載している「ルーズベルト秘録」は、第三部として掲載した「日本脅威論」のなかで、「百年計画」という日本の「侵略計画」を米国大統領が信じ、彼の対日観を決定付けたことを紹介し、この「百年計画」が「田中上奏文」なる偽文書と酷似しているという事実を指摘している。
さらに、この偽文書の影響はそれだけにとどまらない。東京裁判では、冒頭陳述でキーナン検事が、日本の目的は「入念に計画された」「全世界の征服」にあったと述べた。それがA級戦犯二十六名にとって、まったくの事実に反する罪状であることは言うまでもないが、この検察側が描いた日本による「全世界の征服」計画の根拠もまた「田中上奏文」であった。
その意味で、「田中上奏文」は偽文書が現実政治に影響を及ぼした典型例といえよう。まだそうした直接的な影響は与えていないものの、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』の謬説が未だに流布し続けている米国の現状を考えれば、この「田中上奏文」を単に偽文書として片づけるだけではなく、その経過を改めて確認することも一つのケーススタディとして意味のあることではないかと思う。

◆世界を征服せんと欲せば
では、「田中上奏文」とは、一体いかなるものか。この文書自体は、昭和二年(一九二七)、東方会議の決定内容を盛り込んで、当時の田中義一首相が一木宮内大臣に、天皇陛下への上奏を依頼したという格好をとっている。
「昭和二年七月二十五日
内閣総理大臣、田中義一、群臣を行率し、誠皇謹恐、謹みて我が帝国の満蒙に対する積極的根本政策に関する件を奏する」
に始まり、満蒙に対する積極政策、朝鮮移民の奨励及び保護政策、新大陸の開拓と満蒙鉄道から金本位制度の実行などの経済政策に至るまでかなりの長文であるが、後に注目を集めたのは最初の小見出し「満蒙に対する積極政策」のなかに書かれた次の文言である。
「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、まず支那を征服せざるべからず。もし支那にして完全に我国のために征服せられんか、他の小アジア、インド、南洋等々のごとき異服の民族は必ず我を畏敬して我に降伏すべし。世界をして我国の東洋たるべきを知らしめ、永久にあえて我国を侵害することなからしむるに至るべし、これ明治大帝の遺業にして、また我日本帝国の存立上必要たり」
つまり、日本は中国侵略、世界征服の野望を抱いており、東方会議でその基本計画を決定したというのである。
こうした文書が話題になり始めたのは、東方会議の二年後の昭和四年秋のことであり、一般に発表されたのは、その年の十二月、南京で発行されていた「時事月報」という雑誌に中国文で掲載されたのが最初とされる。これを契機に、中国各地でパンフレットのような形で、この「田中上奏文」が刊行され、広く知られるに至る。作者は、中国共産党説から日本人説までいくつもあるが定説はないようである。
ちなみに、今でも国民党関係者の間では、昭和三年六月に、台湾人で貿易業をしていた蔡智堪という男が、宮内省の書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国文に訳し、公表したものだと今でも信じられているという(鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』)。
それはともかく、ここでは、この「田中上奏文」なる文書が、まず中国において、中国文で「日本による中国征服・世界征服のマスタープラン」として流布されたという事実を確認しておきたい。

◆荒唐無稽の偽文書
言うまでもなく、この「田中上奏文」は偽文書である。この問題については、稲生典太郎氏の論文「田中上奏文をめぐる二三の問題」(日本国際政治学会編『日本外交史の諸問題』収録・昭和三十八年)に詳しいので、この論文を参考にしながら、この偽文書がいかに荒唐無稽かを紹介しておこう。
第一に、偽文書なのだから当然と言えば当然なのだが、これまで中国語、そして後に述べるように英語の「田中上奏文」なるものは発表されているが、日本語原文は存在していない。
第二に、田中首相が一木宮内大臣を経て天皇に奉呈した上奏文という体裁をとっているが、このような上奏手続きはあり得ない。上奏文は、内廷の諸文書を管理する内大臣を通じて奉呈されるものであって、宮内省を統括する宮内大臣を経ることは絶対にない。これは当時、日本の官制に通じているものならば誰でも分かることである。また、この文書には「帝国主義」とか「十把一束」など上奏文に使うことなどあり得ない言葉も多用されている。
さらに、内容自体に荒唐無稽な間違いが多数ある。例えば、この文書では「山縣有朋がワシントン条約に関する御前会議で反対した」とあるが、ワシントン条約締結時には山縣は死亡していて御前会議に出席できるはずがない。田中首相がワシントン会議に際して欧米を旅行しているとも書いているが、田中の欧米訪問はその二十年以上も前のことである。実際は、数千キロも離れているにもかかわらず、「対馬とフィリピンとは一投石の距離」などという表現もある。
そればかりか、昭和二年に作成されたとされるこの文書は、その二年後の昭和四年五月に竣工した吉海鉄道が「已に開通した」と記し、昭和四年に開かれた国際動力会議が「本年」開かれるはずだとも書いている。こうした単純ミス(?)は、明らかにこの文書が昭和二年ではなく、昭和四年に創作されたことを物語る記述と言えよう。
こうした書き手の知的レベルの低さ、中途半端な日本知識を物語る間違いは数限りなくあるといわれるが、偽文書たる所以は、この文書が東方会議の決定を盛り込んだ「上奏文」だとする点にある。というのも、昭和二年に開かれた東方会議においてはそうした国策は決定されていないからである。
東方会議は昭和二年六月から七月にかけて、首相と外相を兼任していた田中が外相として在支外交官など関係諸官を招集して行われた。満蒙の懸案事項の解決を眼目としたこの会議には、詳細な報告書が存在しているが、参会者の意見交換などが行われてはいるものの、根本的な満蒙政策の決定などは行われていない。
この会議の最終日に、田中は外相としての訓辞のなかで「対支政策綱領」と言われるものを示している。しかし、この「綱領」も支那本土の内乱には中立で臨むこと、不逞分子による日本権益の侵害、つまり排日運動に対しては自衛措置をとること、万一動乱により満蒙における日本の特殊的地位が侵害された場合は適当な処置をとるということが骨子であり、決して「支那侵略・世界征服のマスタープラン」などというものではない。外務省は、東方会議の後にも同種の会議を旅順、東京で開いているが、そこでも特別な政策決定は行われず、同じ「綱領」が確認されただけである。
というより、むしろこの文書の考え方自体が田中首相の対支政策と矛盾するのである。確かに、田中の対支外交は、それまでの幣原外交を協調政策とすれば、排日運動に対しては対抗措置をとるなど積極外交に転じた。しかし、田中内閣の海軍大臣であった岡田啓介海軍大将が後に東京裁判で証言しているように、その積極策とは、満州に対する経済的進出の計画であり、決して武力によるものではなかった。ましてや支那本土への武力侵攻などは想定外のことであった。
要するに、この「田中上奏文」なるものは、形式においても内容においても、また当時の事実関係から言っても、さらには田中首相の対支政策から言っても、文字通り荒唐無稽の偽文書であることは間違いない代物なのである。

◆宣伝文書から作られた「事実」
当然のことながら、この文書が出回り始めた当時から日本政府はそれが偽文書であることは明白であるとの態度をとっている。また、この「文書」が南京の雑誌に掲載された直後から現地の新聞が取り上げ、またパンフレットとして出版しようとする動きが出てきたため、雑誌掲載直後の昭和五年二月、外務省は中国各地の総領事、領事に対して、「田中上奏文」流布の実態調査と、中国の出先機関に対して頒布の取り締まりや記事取り消しを申し入れるよう訓令を出している。そして四月には、重光代理公使が王正延外交部長に取り締まりを申し入れてもいる。しかし、中華民国政府は、出来るだけ取り締まると約束するだけで、偽文書であるということを公に言明することはなかった。
この段階では、いわば排日運動の宣伝文書といった程度の偽文書であったが、中国側は昭和六年に満州事変が勃発して以降、いよいよ「上奏文」の「侵略計画」が実行に移されたと主張し、多数の「上奏文」小冊子が作られ、中国全土に撒布されるようになる。つまり、満州事変勃発後は、日本批判のための宣伝用資料として使われたわけである。
さらに、昭和七年になると公式の場で中華民国政府の代表が言及するようになる。例えば、その年十一月の国際連盟理事会で中華民国代表の顧維欽が「上奏文」は、「一九三一年九月の満州事変勃発前に於いてその真実性については何らの疑問も起こすことなく日本の新聞にしばしば言及されている記録」であると、この偽文書に言及している。こうして当初は排日運動の宣伝文書であった「田中上奏文」は、「中国侵略の野望」を証拠付ける象徴的文書として取り上げられるようになる。
ちなみに、鈴木明氏によれば、今日でも中国では偽文書として扱われていないという。鈴木氏が紹介している『民国史大辞典』(一九九一年発行)には、問題の上奏文(中国文では「田中奏折」という)は、
「田中義一首相兼外相が一九二七年七月、天皇に奉呈した文書。内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなければならず、世界を征服するためには鉄血手段を以て、中国領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義の意図と世界に対する野心を暴露したもの」
と記され、これが偽文書であるということは明示されないままだという。
荒唐無稽の内容であるにも関わらず、中国は今なお歴史的事実だと主張する――こうした点は今日の南京大虐殺説と共通する問題点を感じさせる。

◆ルーズベルトが信じた「日本の野望」
ところで、この偽文書が中国の国内だけに止まっていたなら、それほど大きな影響を及ぼすことはなかったと想像される。中国以外では、満州事変勃発の頃に、日本批判のためにソ連もこの文書のパンフレットを作成しているが、しかし、この偽文書が後に大きな影響を及ぼすことになったのはアメリカでのことである。
稲生氏によれば、「上奏文」の英文テキストが中国文とほぼ同時期に作られており、それが昭和六年頃に上海から米国のシアトルに送られ、そこで中国人によって何種類ものコピーが作られて、アメリカ各地の新聞社に大量に送られたという。
ここで特に注目すべきことは、昭和八年に大統領に就任したルーズベルトが日本には「世界征服」の野望があると信じていたことである。この点について、産経新聞の連載「ルーズベルト秘録」が詳しく論じているので、この連載を参考にして紹介したい。
個人的に中国人に対して特別の親しみを感じていたルーズベルトは、就任早々、前政権がとっていた対日政策を継承することを決める。その前年、フーバー政権は、関東軍による満州事変が錦州やハルビン占領と拡大する中で、それまでの宥和政策から、国務長官スチムソンの主張した「侵略による領土変更は認めない」との原則へと転換していた。ルーズベルトはこのスチムソン・ドクトリンを採用し、さらにこのドクトリンを越えて「力の外交」へと転換していくことになる。スチムソンは対日経済制裁を主張していたが、経済制裁は戦争につながらないと考えていたのに対して、ルーズベルトはそうではなかった。
「ルーズベルト秘録」によれば、就任当初、政策顧問のレイモンド・モーレイが国際紛争の一方の当事国に経済制裁を行うことは戦争につながると説いたとき、ルーズベルトは「日本の好戦性を考えれば、戦争は避けられないかもしれない。ならば後回しにするよりいま、戦った方がいいのではないか」と平然と答えたという。
こうしたルーズベルトの日本観の背景となったのが、日本の「百年計画」だと、「秘録」は指摘している。スチムソン日記によれば、スチムソンが就任直前のルーズベルトを訪ねた際や、それ以降も何度か会う度に、この「百年計画」が話題に上ったという。
この「百年計画」とは、「いずれやってくる欧州との対決のため、日本は陸上、海上から徐々に満州、中国へと膨張し、シャム(タイ)やインドネシアを奪おうという計画」で、「一九〇〇年以来、その通りにことが運んでおり、日本人は計画を予定通り進めている」(ルーズベルトの従姉妹、マーガレット・サッカレー)のだという。また、スチムソンによれば、この「百年計画」は十段階のステップを踏むことになっており、中国との戦争で力を示す第一段階(日清戦争)から、朝鮮の併合、満州の奪取、さらには東南アジアの占領へと進み、最終的にはアジア太平洋を日本圏とする、というものだという。内容はまさに「田中上奏文」と酷似している。
ルーズベルト自身は、この「百年計画」はハーバードの学生時代に日本人の友人・松方乙彦から聞いたと、スチムソンに語っている。だとすれば日露戦争より以前にこうした計画があったことになるのだが、それはあまりに出来すぎた話である。「秘録」は、ルーズベルトがスチムソンに「百年計画」の話を持ち出した時こそ、「田中上奏文」がアメリカで撒布されていた時期であり、この計画のモデルは「田中上奏文」であったことはほぼ間違いないという。
ともあれ、日本には世界征服の野望があると信じていたルーズベルトの目には、その後の支那事変の拡大や仏印進駐などは、文字通り、「百年計画」の実行だと映ったことは十分に考えられることであろう。
しかも、こうした考え方は、大統領のルーズベルトだけに限ったことではなかった。例えば、ハルノートで有名な国務長官コーデル・ハルは、「(日本は)田中内閣の登場でいわゆる中国への積極政策を開始した。日本の東洋支配は三一年の満州侵略(満州事変)と満州国樹立で実現した」(「ハル回顧録」)と、「田中上奏文」が自明の事実であるかのように語っている。
ルーズベルトは、このハルを国務長官として、さらには昭和十五年にスチムソンを陸軍長官に迎え、さらなる「力の外交」を展開していく。そして、昭和十六年には、石油禁輸措置や在米日本資産の凍結という経済制裁が実施され、そして、ルーズベルトが就任当時モーレイに語ったごとく、ハル・ノートを経て、日本との戦争に突入することになる。
もちろん、そうした米国首脳の日本観だけが、日米開戦の背景にあったわけではない。根本的には中国を巡る日米の構造的対立があり、さらにはイギリスがドイツの空爆にさらされていたヨーロッパの戦局も踏まえて、米国は対日政策を決定していたと言われている。しかし、日本は世界征服の野望を抱き、その計画を遂行しているという日本イメージをルーズベルトをはじめとする米国首脳が抱いていたからこそ、日米関係がエスカレートしていったこともまた事実であり、それを根拠付けたのが「田中上奏文」という偽文書だったのである。

◆東京裁判の基本構図となった偽文書
実は、アメリカが「田中上奏文」の描いた「世界征服の野望を抱いた」日本というものを前提としていたことは、ルーズベルトの「百年計画」の話によらなくても、戦後の東京裁判によって明らかである。
というのも、既に知られていることでもあるが、東京裁判での検察側の冒頭陳述は、「田中上奏文」という言葉こそ出てこないものの、その構図は明らかにこの偽文書を下敷きにしているからである。関係する冒頭陳述の部分を抜き書きすると次のようになる。
・日本の破壊行為は、自然のうちに発生したものではなく、入念に計画された努力から始まった。
・(被告たちの)目的は、世界中に武力を発動する、ということだった。このために何百万人の人数が死亡するということは、彼らが目的とする全世界の支配の前では、別に問題ではなかった。
・われわれは、次のことを証明するであろう。即ち、一九二八年一月一日以前、多年にわたって軍部は日本の青年に軍国主義教育を行い…、一九二七年、日本政府は中華民国に対して、積極政策を樹立し、一九二八年四月、中華民国に軍隊を派遣した。
・起訴状は、……あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的を以て宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したことを明らかにする。
・ここにいる被告二十六人と同種類の他の人が、異様なる熱意を以て全世界の破壊をもたらすような計画と努力を行い、さらにそれを実行することは、将来も大いにあり得るであろう。
つまり、検察側は、「一九二七年、日本政府は中華民国に対して、積極政策を樹立し」、「入念に計画され」、目的が「全世界の支配」であり、「あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得」をするのだというのである。
しかも、それが満州事変が始まった昭和六年(一九三一年)、支那事変の昭和十二年(一九三七年)からというならまだしも、起訴状によればA級戦犯が起訴された訴因の対象となる期間は昭和三年一月一日から昭和二十年九月二日までである。昭和三年とは言うまでもなく田中義一内閣の時代である。検察側の冒頭陳述はまさに「田中上奏文」を下敷きに作られたという他ない。
実際の審理でも、検察側は田中内閣の海軍大臣・岡田啓介、盧溝橋事件当時の北支の軍事部門の責任者であり、蒋介石の側近でもあった秦徳純を証人として喚問し、日本の「最終計画」なるものを立証しようとした。しかし、その目論見は当然のことながら、はずれてしまう。
岡田は田中内閣の「積極策」は「武力でなく、平和裡に行う」というものであり、「田中メモリアル」なるものは「見たことはありません。そういうものはないと信じております」と証言し、一方、秦の方は太田弁護人と林弁護人から「田中上奏文」が「事実ではないことを知らないのか」とせめられ、自分が見たのは中国文のパンフレットであって、原文があるかどうか知らないと証言する。さらに当時奉天領事だった森島守人が証言した際、アメリカ人弁護人クライマンが執拗に「田中メモリアル」について質問し、「(田中上奏文については)聞いたことがあります。そして、私はそれが偽物であることを知っています」との証言を引き出すに至る。
こうして「田中上奏文」に関する審理は打ち切られ、以後、審理の対象となることはなかったのだが、国際裁判において、排日運動の宣伝文書として作られた(と思われる)「田中上奏文」が基本構図とされて、日本という国家が裁かれたわけである。この文書が戦前のアメリカにどれほど大きな影響を及ぼしていたか、が分かる。

この「田中上奏文」の経過は、中国が日本批判を意図して米国に情報発信し、米国を利用して日米関係を悪化させ、米国の手によって日本を叩いたという経過である。これは、今日の南京大虐殺説がとろうとしているパターンと類似する。
南京大虐殺説が直接的な政治的影響力を持っていると思えないのだが、「田中上奏文」という荒唐無稽の偽文書が、中国に対する「侵略」の基本文献とされ、それが米国に渡り、米国世論だけでなく、親中感情をもったルーズベルトの政策判断に確信を与え、さらには戦後の東京裁判の基本構図として採用されるまでに至ったわけである。いかに事実無根の文書と言えども、それが国家間の対立構図に利用されたなら、大変な影響力を持ちうるということは十分に注意しなければならないと思う。(『明日への選択』編集長 岡田邦宏)
〈初出・『明日への選択』平成12年9月号〉
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