アマゾンに消えたイギリス人大佐

アマゾンに消えたイギリス人大佐
2013.12.31 - 歴史秘話 其の二

1906年10月、南米ブラジルの底知れないジャングルの中で、イギリスの探検隊が苦闘していた。彼らに課された任務は、ブラジルとボリビア間を測量して国境線を定める事であった。言葉にすると簡単であるが、これは想像を絶する困苦を必要とした。蒸し暑い熱帯気候は、ただそこにいるだけで体力を奪う。それでいて隊は、毎日の様に山刀(マチェーテ)を振るって、ジャングルを開削する重労働をせねばならなかった。ジャングルはあらゆる危険に満ちていて、そこには猛獣ジャガーを始め、毒蛇のサンゴヘビやクサリヘビ、敵対的なインディオなどが潜んでおり、更に、マラリア、デング熱、象皮病、黄熱病などの病原菌が満延していた。


隊員は合計23名、隊長はイギリス人少佐パーシー・ハリソン・フォーセットで、1867年生まれの39歳、後にアマゾンの伝説となる人物である。身長186・7センチの大柄な体格の持ち主であるが、なにより、鷹の様な鋭い眼差しが印象的な人物である。探検隊は丸木のカヌーに乗って、ブラジルとボリビア間を蛇行する川を遡って行く。その川も危険な生物で満ちており、ワニやアナコンダなどの大型爬虫類に、ピラニア、電気ウナギ、カンディル(吸血ナマズ)などの獰猛な魚が潜んでいた。この中でも、カンディルは特に危険で、人の肛門や尿道、膣などに侵入しては、激痛を与えつつ生き血を啜る。しかも矢じりの様な返しが付いているので引き抜く事は困難で、除去するには手術が必要であった。


隊は丸木舟に乗って川沿いを調査していったが、ある日、フォーセットは川縁に倒木の様な、何か気になるものを見つけた。しかし、それは巨大なアナコンダの見間違いで、うねうねと動いて舟に近づいてきた。隊員達は恐怖の悲鳴を上げ、フォーセットはライフルを取り上げて、無我夢中で撃ち続けた。硝煙が辺りに立ち込め、やがてアナコンダは動かなくなった。フォーセットは標本用に皮を削ごうと思って蛇に近づいたが、川の流れによるものか、揺らりとその巨体が動いたので、一行は慌ててその場を離れた。この大蛇は、フォーセットの見立てでは、18メートルもの体長があった。アナコンダの公式な最長記録は8・5メートルであるが、それを超える大物が密林の奥に潜んでいたのであろうか。隊は常に危険な生物の脅威に慄いていたが、それよりも悩まされたのが小さな虫達である。


皮膚に産卵管を差し込んで体内に蛆を発生させる蝿(ベルニ)、皮膚を刺して病変を残す小さなブヨ(ピウム)、病原菌を撒き散らす蚊(ネッタイシマカ)、などである。隊は蚊帳を持っていたが、ほとんど役に立たなかった。9月25日、ボリビアの町、リベラルタから、探検隊は23人で出発したが、10月25日には虫のせいで半数が病人となっていた。フォーセットと同じ舟に乗っていた4人の隊員は病死し、岸辺に埋葬された。やがて、隊は敵対的なインディオが存在するジャングルに足を踏み入れていった。隊は尾行され、周囲にはインディオと思われる裸足の足跡が付くようになったが、その姿を確認する事は出来なかった。夜間、ジャングルから時折、人間の甲高い声が響いてくるが、やはりその姿を確認する事は出来なかった。


そういったある日、迂回路を探しにいった水先案内人が森の奥に消えた。フォーセットは数人の隊員を連れて捜索に向かったが、そこで見つけたのは数十本の矢が刺さった案内人の死体であった。フォーセットはすぐに退避に取り掛かり、舟を漕ぎ出した。すると、体中をまだらに彩色したインディオ達が岸辺に姿を見せ、矢を射かけ始めた。インディオの矢には猛毒が塗られている。隊員達は舟に身を伏せつつ、必死に櫂(かい)を漕いで難を逃れた。フォーセットはこの様な危険な目に遭っても、尚も任務を続行し、ジャングルを開削して測量していった。そして、1907年5月、ついに全工程を踏破し、ブラジルとボリビアの国境線を定めたのだった。隊員のほとんどがやつれきった病人と化していたが、フォーセットだけは発熱もなく、健康そのものであった。


周囲の人間は、フォーセットの頑強な肉体に驚き呆れた。フォーセットによれば、「この地域では、健康な人間が奇人、変人、異常者に見られた」との事である。フォーセットの肉体は熱帯病への耐性があり、フォーセット自身、申し分のない体質であると自画自賛した。1907年末、フォーセットは久方ぶりに帰郷し、家族と安寧の日々を過ごした。しかし、フォーセットはそんな平凡な生活にはすぐに飽いて、あの地獄の様なジャングルを恋しく思うようになった。彼はもう野生の人と化していて、文明生活には馴染めず、家にあってもハンモックで寝るのであった。そして、数ヵ月後には装備をまとめて、再び南米に渡って行った。フォーセットいわく、「私は悪魔のような手で鷲掴みにされ、またあの地獄を見たがっていた」


1908年、フォーセットは再びアマゾンのジャングルに降り立った。今度の目的はブラジル南西部の町コルンバ周辺の測量と、ブラジルとコロンビアの国境沿いを流れる川、リオ・ヴェルデの調査だった。フォーセットを長とする合計9人の探検隊は、二艘の筏(いかだ)に乗り込んで川を下っていった。だが、川は途中で急流となってこれ以上、筏で進むのは不可能となり、山刀でジャングルを開削しての前進となった。隊は汗を滝の様に流しながら、朝から晩まで草木を切り倒しつつ、先を目指したが、それでも1日に800メートルも進めなかった。隊は食料を節約するつもりであったが、激しい肉体労働による消耗から、すぐに食料を平らげてしまった。


アマゾンは緑の樹木に多い尽くされているが、そこに人間が食べれる様な動植物は驚くほど少なかった。やがて食料は尽き果て、口にするのは僅かな木の実と動物のみとなる。隊員達は退却したがったが、フォーセットはそれでもヴェルデ川の源流を見つけるべく、前進を強攻した。陸路を突き進んで1ヶ月、ようやくヴェルデ川の源流を見つけたが、隊は疲弊しきっていた。隊員のほとんどは痩せ衰え、高熱を発していた。それでも隊員達は気力を振り絞って帰路に着き、意識を朦朧とさせつつ、ようやく最寄りの入植地に辿り着いた。フォーセットは、「緑の地獄、征服」との電報を発したが、隊員の内、5人は衰弱しきって、まもなく息を引き取った。


1910年、フォーセットは、ペルーとボリビアの境目を流れるヒース川流域の探検測量に取り掛かった。しかし、丸木船に乗って川を進んでいた際、フォーセット一行は好戦的なインディオ、グアラヨ族と遭遇し、雨あられと矢を射掛けられた。隊員達は驚愕して、「退却!退却!」と叫んだが、フォーセットは、「インディオのいる向こう岸に着けよ!」と言って譲らなかった。フォーセットは川に降り、はんかちを頭上で振りながら、矢が降りしきる中を歩き出した。そして、フォーセットは聞き知ったインディオの言葉で「友!友!」と繰り返すと、矢は止んだ。やがて、インディオの1人が水際まで降りてきて、フォーセットの手からはんかちを受け取った。フォーセットとインディオが和解し、親交を結んだ瞬間であった。


インディオはフォーセットからステットソン帽を贈られると、それをかぶって上機嫌となり、代わりにバナナや魚、首飾りなどをくれた。この勇気ある非暴力、友好姿勢は、フォーセットのこれからの探検の常套手段となる。そして、インディオから弓を向けられる度、山刀をその場に捨て、両手を頭上に掲げて歩み寄り、何かしら物を差し出して、インディオと親交を結ぶのだった。また、フォーセットは如何なる場合であっても、ライフルでインディオを銃撃してはならないと隊員に申し付けていた。この様なやり方は、無謀であると言う者もいたが、フォーセットは、「無勢の探検隊が、多勢のインディオ部族に対抗する術は無い。友好的な姿勢を見せる他、無いのだ」と述べるのだった。実際、インディオ部族の多くは、フォーセットの友好を受け入れたが、中には交渉の余地もない好戦的な部族がいるのも確かであった。


1911年、フォーセットは、ボリビア北西部の探検測量に取り掛かった。この探検には、南極探検で名を馳せた科学者マリーが加わったが、フォーセットとは反りが合わず、探検中、幾度と無く衝突する事になる。マリーは初めて味わう南米の蒸し暑い気候とジャングルでの重労働に苦しみ、隊から遅れがちになった。マリーは度々、フォーセットに小休止を提案したが、にべもなく却下されるのが常だった。マリーは始終文句を言って、盗み食いをするようになり、フォーセットも、「貴様に疲れる権利などない!」と言い放って、前進を強攻するのだった。フォーセットは、自分に付いてこれる意志と能力の持ち主であれば、敬意を表して誠実に対応したが、そうでない者は侮蔑して突き放すのが常だった。


フォーセットは、「無能で怠惰な人間には我慢ならない」と述べており、探検隊から追放されたり、耐えかねて脱走する者もいた。1911年の探検も過去同様、過酷なものとなり、隊員達は次々に病魔に犯されていった。マリーの健康状態はより酷く、下痢に悩まされ、両足は象皮病に罹ったのか、腫れあがって靴を履くのも困難になっていた。その上、膝や肘の周りには、数十匹以上の蛆が皮下組織に蠢いていた。マリーはそれを見て戦慄し、蛆の駆除を始めたが、それらは傷の内部で死んで腐り、より症状は悪化した。 マリーの体は壊疽で膨れ上がり、膿を大量に流して、後は死を待つばかりとなった。


フォーセットは探検に取り掛かる際、予めこう申し渡していた。隊員の病気が悪化したり、骨折して前進が不可能となった場合、その者は遺棄していくと。ジャングルの奥地で動けなくなった者を助けようとすれば、隊全体が消耗して危険に晒されるからだ。しかし、実際にその様な措置を取った事の無いフォーセットは悩み、マリーを放置するか、救出するか、隊員と話し合いをもった。マリーとは犬猿の仲であったが、フォーセットはここで、助ける判断を下した。そして、不本意ながらも探検を一時中断して、一番近い入植地を探し、道中、出会った開拓民にマリーの身を委ねたのだった。その後、フォーセットは探検を再開して、1ヶ月後にペルーのコハタに到着した。


マリーは瀕死の状態であったが、親切な開拓民一家の手厚い介抱を受けて、一命を取りとめた。マリーは帰国すると、「フォーセットに殺されかけたも同然だ」と、非難の声を上げた。一方のフォーセットも、「彼の症状を招いたのは、彼自身の怠惰によるもので同情の余地はない。人道的に言って、彼のために出来る事は全てした」と反論するのだった。マリーとフォーセットは水と油の様な関係であったが、反骨心旺盛な点だけは似ていた。1913年、マリーは熱帯にはもう懲り懲りして、カナダの北極調査隊に参加する。しかし、そこで氷に閉ざされて船が動かなくなると、マリーは仲間と組んで反乱を起こし、船長と別れて、荒涼たる雪原に脱出を図った。残った船長は助かったが、マリーの姿を再び目撃した者はいなかった。


フォーセットは未踏のジャングルを開削して測量するという困難極まる任務を完遂し、南米の国境画定に多大な貢献を果たした。探険家としての名声は最早、不動のものとなり、本人も、ここからは自らの探究心の赴くまま探検行に乗り出そうとした。そして、1914年、フォーセットはブラジル南西部を探索し、そこで未知のインディオ、マスビ族を発見する。フォーセットは彼らと親交を結び、生態を調査すると、マスビ族は極めて知的で、ジャングルを開拓してバナナやトウモロコシを植え、精巧な土器を作るなど、豊かな農耕生活を営んでいる事が分かった。


また、彼らが語り継いできた伝承によれば、祖先はもっと豊かで、広大で美しい集落に住んでいたとの事だった。当時のヨーロッパ人の多くは、アマゾンは未開の地で野蛮人しか住んでいないと考えていたが、フォーセットは、実際には高度な文明があったのではないかと、考えるようになった。それを裏付けるかのように、フォーセットはジャングルの中で、人や動物を描いた古代の絵や彫刻らしきものが描かれた岩を見かけたり、小さな高台に登る度に、土器などの人工物を見つけていた。フォーセットはアマゾンの中心には、知られざる文明の遺跡が存在すると推測し、それを見つけるのが自らの使命であると考えるようになった。


実は、アマゾンの中心に遺跡があると考えたのはフォーセットが初めではなく、既に16世紀からその存在は噂されていた。それが、黄金に彩られた都市、エル・ドラードの伝説である。エル・ドラードとは本来、黄金を塗った者という意味であるが、スペインの征服者達(コンキスタドール)は、これを黄金の国ととらえ直したのだった。そして、欲望に駆られた征服者や探検家達は、黄金都市を求めてアマゾンの奥地に次々に踏み込んだが、その度に多大な犠牲者を出した挙句、何の成果も得られずに、空しく引き揚げるのみだった。


フォーセットはそういった征服者達よりは現実的かつ、学術的で、黄金の都市は誇張された作り話で、そこにあるのは石造りの古代都市であろうと考えていた。そして、ブラジル東部のバイーア州に、それがあると目星を付け、いよいよ本格的に古代都市の探索に向かおうとした。フォーセットの胸は高鳴るばかりであったが、そういった矢先に第一次世界大戦が勃発し、探検を中断せざるを得なかった。そして、1人の愛国心あるイギリス軍人として、西部戦線の塹壕に飛び込んでいった。フォーセットは少佐として100人の野戦砲兵隊を率いて、ドイツ軍に立ち向った。フォーセットは戦場においても勇敢で抜群の働きを見せ、1916年には中佐に昇格して、700人以上の旅団を率いる身となった。


1916年7月1日、戦史上に名高いフランスソンムの戦いでは、フォーセットは砲兵をもって、突撃していく歩兵を援護した。フォーセットは、イギリス兵達が砲弾で吹き飛ばされ、機関銃になぎ倒されていく様を目撃し、この戦いは終末の決戦(ハルマゲドン)であると言った。この日だけで、イギリス軍は2万人近くが戦死し、4万人が負傷した。砲弾や毒ガスが絶え間なく降り注ぐ戦野には無数の人骨が散らばり、兵士達の唯一の生活空間である塹壕は泥や糞尿にまみれ、蛆(うじ)や鼠が蠢(うごめ)いた。負傷者の苦悶の叫びや、呻き声も絶える事は無かった。フォーセットはこの戦いで体に傷を負う事は無かったが、心には傷を負い、休暇で帰宅した際には、何時間も黙ったまま頭を抱えて座っていた。


忌まわしい戦場で正気を保つため、兵士達は家族や恋人、故郷に思いを馳せたが、フォーセットの場合は、アマゾンの古代都市であった。例え戦闘中であっても、古代都市の幻影が消える事はなく、部下にも、戦争が終われば、すぐにでも古代都市探索に向かうつもりだと語っていた。彼は、愚かで醜い人間世界よりも、過酷ながら純粋な大アマゾンに身を置きたかった。1919年6月19日、ようやく戦争は終結し、フォーセットは中佐身分で除隊して、久方ぶりに帰宅した。だが、家庭にあっても彼の頭の中にあるのは、古代都市であって、すぐさま探検資金の獲得に動き出すのだった。


しかし、当時のイギリスは戦争によって疲弊しきっており、資金を援助しようとする者はなかなか現れなかった。フォーセットは焦っていた。資金がなかなか集まらない事もそうだが、彼もこの年、52歳となっており、さすがに体力の衰えを感じざるを得なかったからだ。1920年1月、フォーセットはなけなしの貯金をはたいてジャマイカに移転すると、その足でブラジル政府にかけあって、探検資金の援助を要請した。フォーセットは退役中佐の身分であったが、これでは威信に劣るとして、イギリス陸軍省に大佐に昇格させてもらいたいと要請した。


この申し出はにべもなく却下されたが、フォーセットは構わず大佐を自称し、これで世間一般には、フォーセット大佐という呼び名が定着する。1920年、フォーセットはブラジル政府から僅かばかりの探検資金を得ると、隊員を募集し、大柄なオーストラリア人ボクサー、ルイスに若いアメリカ人鳥類学者、アーネストを加えて、念願の古代都市探索に乗り出した。隊は勇躍、クイアバの町から出発したものの、今回の探検は最初から上手くいかなかった。雨季に出発した事から、長雨を受けて装備が台無しとなり、そのうえ、頑強な男と見込んだはずのルイスもジャングルの過酷な環境に耐えられず、精神に異常を来たし始めたので、クイアバに送り返さざるを得なかった。


それでもフォーセットは、アーネストと2人で前進したが、1ヶ月後にはアーネストも衰弱し切って弱音を吐くようになり、フォーセット自身も足が感染病で腫れ上がって、これ以上の前進は困難となった。フォーセットは何の成果も挙げられないまま、探検を中断せざるを得なかった。無念この上なかったが、それでもフォーセットは諦めず、再び古代都市探索の計画を練った。そして、1921年8月にはなけなしの私財をはたいて、なんと、たった1人で探検行に乗り出した。彼は54歳という年齢でありながら、危険に満ちたジャングルの奥地に分け入り、飢えと乾きに苦しみながら、3ヵ月に渡って探索を続けたのだった。


途中で物資が尽きたので、フォーセットは退却せざるを得なくなかったが、狂気にも近いその熱意は燃え上がる一方であった。そして、帰還するなり、再び探検計画を練り始めたものの、深刻な資金不足がそれを許さず、彼はとうとう破産に追い込まれた。フォーセット一家はイギリスに戻って、倒壊寸前の古家を借り、そこで電気も水道も無い貧窮生活に陥った。生活のために家財を売り払ったが、それでも足らず、先祖代々の家宝まで売る始末であった。さすがのフォーセットも絶望の淵に沈み、不機嫌に黙ったまま家で過ごす日が続いた。フォーセットの妻ニーナは良き理解者であったが、とても不安定で寂しく、ひどく貧しいとこぼし、自身の境遇を船乗りの妻に例えている。フォーセットは偉大な探検家であったが、良き家庭人であるとは言い難かった。

1924年9月、フォーセットはリンチという記者と知り合い、彼を通じてアメリカ合衆国の各団体から資金を獲得出来る目処が立った。フォーセットは愁眉が開く思いで、早速、探検の準備に取り掛かる。フォーセットは今回の探検に賭けており、決定的な発見をするまで、ジャングルで1年から2年を過ごすと決意していた。これが可能なのかと言うと、フォーセットはこれまでに、ジャングルの先駆者であるインディオから、狩りの方法や食べられる植物の見分け方などを学んできており、初期の頃より、効率的にジャングルから食べ物を採取できるようになっていた。


また、インディオの集落を拠点として、そこから探検行に乗り出す事も考えたのだろう。しかし、古代都市を見つけるという崇高な目的のため、なんの道楽も無く、危険に満ちたジャングルで2年もの間を過ごすのは、並大抵の人間に出来る事では無い。フォーセットは今回の探検に、誰よりも信頼が置けて、同じ目的意識を持ち、更に体力抜群で意志強固な隊員を必要とした。そのためにフォーセットが選んだのは、自らの息子であるジャックと、その親友のローリーであった。


ジャックは偉大な探検家である父に憧れて、少年時代から体を鍛えており、21歳の今では身長190センチの恵まれた体格を誇った。ローリーも21歳で、身長は180センチ近くあって、筋肉質な体格であった。この2人に探検経験はまだ無かったが、古代都市を見つけるという同じ目的意識があり、従順で信頼が置け、それに若々しい活力に満ちていた。フォーセットはこの2人ならば、未知の大いなる試練にも耐えられると期待した。フォーセットは己の探究心を満足させ、不朽の栄誉を掴むべく、若いジャックとローリーは浪漫と名声を求めて、ブラジルへの旅路についた。


1925年1月、3人はリオデジャネイロに立ち寄り、同年2月11日、そこから列車に乗って1500キロ以上先の奥地へと向かった。3月3日、クイアバに到着すると、そこで探検に適した乾季が訪れるまで待つ事となった。フォーセットはここで2人のガイドを雇い、馬やラバなどの動物を買い入れた。そして、4月20日、乾季が到来し、いよいよ出発となった。フォーセットはまず、ここから150キロ先にある、バカイリ営所を目指した。フォーセットはこの行程を、忍耐力と耐久力の試験と位置付け、2人の若き同行者の探検家としての資質を試そうとした。


ジャングルの過酷な環境は、人間の本性を曝け出す。ここでは弱気は許されず、強靭な意志と体力を有する者のみが立ち入りを許される。ローリーは普段は陽気な性格の持ち主であるが、ジャングルの生活を続ける内に徐々に陰鬱となり、黙りこむようになった。また、ダニに噛まれて足に感染症を患い、隊の仕事をこなせなくなった。反対にジャックの方は未開のジャングルにあっても意気軒昂で、父譲りの抜群の体力を示すと共に、感染症に対する免疫力も発揮した。それに勇気ある行動を示して、父、フォーセットを喜ばせた。57歳となるフォーセットは、さすがに体力の衰えは隠せなかったが、それでも意気軒昂で、常人以上の耐久力はまだ健在であった。


しかし、連れて来た動物達が弱り始め、ローリーの体調も思わしくなかったので、フォーセットは休憩を入れるため、ガウヴォンという人物が経営する牧畜場に立ち寄った。ガウヴォンは多数のインディオを殺害して農場を広げたとされる、いわくつきの人物であるが、フォーセット一行を快く受け入れて、数日間もてなしてくれた。出発するにあたっても、ガウヴォンは弱った動物と引き換えに、犬を譲ってくれた。クイアバを発ってから1ヶ月後、フォーセット一行は、20軒ばかりのあばら家があるだけのバカイリ営所に到着する。5月19日、ジャックはここで22歳の誕生日を迎え、翌5月20日、一行はいよいよ人跡未踏のジャングルの奥地へと踏み込んでいった。


5月29日、一行は好戦的なカイアポ族が住む地帯を恐る恐る通り抜け、更に恐ろしいとされるシャバンテ族が住む地帯に差し掛かった。シャバンテ族はかつて白人に残虐行為を受けた過去があるので、白人を信用しなくなり、友好的に接触しようとする者さえ殺害するようになっていた。フォーセットは、非常に危険な地域に踏む込もうとしていた。クイアバから連れてきたガイド2人は熱帯病を患い、これ以上の前進を渋ったので、ここで送り返す事にした。ローリーも足の感染病は治っておらず、黄疸の症状が現れて片腕も腫れ上がっていたので、フォーセットは一緒に引き返すよう促した。


ローリーはジャングルの中で心の弱さを露呈し、体質的にも向いていなかったが、ここにきて、最後まで頑張ると言い張ったので、このまま同行する事となった。3人のささやかな探検隊はガイドに手紙を託し、手を振って別れるとジャングルの奥地へと入って行った。彼らは古代都市を見つけるため、これから2年余りもジャングルで過ごすのだ。それから数ヵ月後、ガウヴォンが譲った犬が、ただ一匹、よれよれになって彼の邸宅に戻ってきた。フォーセット一行の行方に不吉な暗雲が漂う。フォーセットの人並み外れた体力と意志は世間に広く知れ渡っており、当初は誰も心配していなかったが、何の音沙汰も無いまま2年が経ち、1927年の春を迎えると、さすがに彼らの安否を不安視する声が上がり始めた。


北米の新聞社はこの格好の話題に飛びつき、フォーセットの一大危機、アマゾンのミステリーなどと、紙面一面に扇情的に書きたてた。これを受けて、世間一般から大小様々な捜索隊が志願して、アマゾンに向かう事となる。そして、1928年にダイオットという人物が最初に調査に乗り出したのを皮切りに、次々に捜索隊がアマゾンの奥地へと向かっていった。だが、誰一人として、フォーセット一行の痕跡を掴む事は出来ず、それどころか、3人の探検隊を見つけるため、100人以上の捜索隊がジャングルの奥地で永久に行方不明になる有り様であった。ジャングルはやはり過酷であり、この結果を受けて、人々もフォーセット一行の生存を絶望視した。


そのまま25年の歳月が流れ、1950年を迎えると、話題の的であったフォーセット失踪も世間から忘れ去れていたが、彼の80歳になる妻、ニーナは、生きていれば82歳になる夫と、47歳の息子の生還を今なお信じて待ち続けていた。1952年、フォーセットの次男であるブライアンは、父の軌跡をまとめた「フォーセット探検記」を草稿する。その最初の一冊を手渡されたニーナは、夕方から翌朝になるまで夢中になって読んだ。それを読んでいると、夫がすぐ側にいるように感じられ、夫やジャックとの思い出で胸が一杯になった。そして、読み終えるなり、「ブラボー!ブラボー!」と叫んで、この本の出来を褒めた。それから1年後、1953年、ニーナは84歳の生涯を閉じた。貧困に喘いだ彼女の最後の場所は、荒れ果てた下宿屋であった。


フォーセットはどこに消え、どのような最後を遂げたのであろうか?近年に至り、ある記者がフォーセット失踪を追ってアマゾンの奥地まで赴き、フォーセットが消息を絶ったとされる地域に住んでいるカラパロ族に取材を試みた。その結果、カルパロ族の首長からフォーセットにまつわる、非常に興味深い話を聞く事が出来た。


彼らは動物を連れず、荷物を自分で背負っていた。首長である1人は年を取っていて、あとの2人は若かった。3人は空腹で疲れ切っていたので、人々が魚を与えると、3人はお礼として釣り針とナイフを差し出した。やがて、年取った男が、「もう行かなくてはならない」と言った。人々が、「どこへ行くのか?」と訪ねると、「あの方角だ。東へ」と答えた。人々は口々に「誰もあの方角には行かない。向こうには好戦的な部族がいる。殺されるぞ」と諌めた。だが、年取った男は耳を貸さず、出発して行った。それから何日間かは、夜になると野営の焚き火と煙が見えた。しかし、その火は5日目に消えた。人々は3人に何かよからぬ事が起こったのではないかと心配し、野営地を探しに行ったが、もうどこにも3人の痕跡は見当たらなかった。


これはカラパロ族の首長が、両親から語り聞かされたもので、代々語り継がれてゆく、口承歴史というものであった。口承歴史とは、文字を持たない種族が、部族に起こった出来事を世代から世代に正確に語り継いでいくものである。記者が調べを進めると、1931年にカラパロ族と接触した人類学者も同様の話を聞いたと報告しており、1981年に、カラパロ族を調査したアメリカの人類学者もまた、同じ話を報告している事が分かった。この口承歴史を聞くからに、フォーセット、ジャック、ローリーら3人は道中、カラパロ族の村に立ち寄って歓待を受けたが、そこを出てほどなく好戦的な部族に遭遇し、そこで殺されたと見るべきではなかろうか。


現在に至り、フォーセットが最後に探索した地域からは、数々の文明の痕跡が発見されている。例えばクイクロ族という部族の住む地域からは、古代の大集落の跡が残されており、しかもそれを守る様に、直径1・5キロの円状の壕が掘られていた。集落跡には道路や水路、橋に土手道の痕跡が残されており、広大な広場もあった。人々は排泄物と炭を用いて黒い肥沃な土を作り、豊かな農耕生活を営んでいた。また、ここからは多数の土器も見つかっている。ジャングルに石材は少ないので、人々は木や土を用いて集落を築いていた。周辺数キロにも同じような集落跡が幾つも見つかっており、それぞれが道路で繋がっていた。しかも、それらの集落は極めて計画的に配置されており、当時の中世ヨーロッパ都市と比べても遜色の無いものだった。これらの集落にはそれぞれ2千人から5千人の人々が住み、西暦800年から1600年にかけて存在していたと見られている。しかし、ヨーロッパ人によって持ち込まれた疫病によって人口が激減すると、これらの集落も衰退して、やがてジャングルに覆い尽くされていった。フォーセットが想像していたような石造りの都市こそ無かったが、ここには確かに文明の痕跡があったのだ。

主要参考文献 「ロストシティZ 探検史上、最大の謎を追え」
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