4、カントの神の存在証明に対する批判

4、カントの神の存在証明に対する批判

カントは『純粋理性批判』(A.1781,B.1787)において、それまで試みられてきた神の存在証明は結局三つの証明に帰するとする。すなわち、「宇宙論的証明」、「自然神学的証明」、「存在論的証明」がそれである。しかも、前二者は結局神の概念からその存在を証明しようとする存在論的証明に依拠するとされる。

神の宇宙論的証明と自然神学的証明は、いずれも何らかの経験から出発してもっとも実在的な存在者、すなわち神の存在へと達しようとするものである。まず宇宙論的証明をみると、それは従来世界の偶然性からする証明と呼ばれたものである。世界において何かが存在するとすれば、その究極的な原因として絶対的、必然的なものが存在しなければならない。世界における存在者はすべて偶然的なものでそれだけで存在しうるものではないのだから、何らかの原因を有しているのでなければならない。それもまた偶然的だとすれば、さらにその原因が求められなければならない。そして、こうした原因の連鎖の果てに、絶対的、必然的なものが存在しなければならない。だが、そうしたものとして考えられるのは、もっとも実在的な存在者としての神のみである。したがって神は存在する。

カントはこうした神の宇宙論的証明を基本的に次のように批判する。まず、それは因果性のカテゴリーは感性界においてのみ妥当するはずだが、それを「感性界を超越するために」用いており、しかもその際不当に「第一原因を推論する」ことがなされている(K.d.r.S.580)。次に、この第一原因としての神が存在するとされるが、そのことは神の概念からその存在を証明しようとする存在論的証明を前提としている。しかし、その証明こそが神の存在証明における最大の難点をなしているのである。こうしてカントによれば、神の宇宙論的証明は、回り道はしたものの、「我々がかつて見捨てた古き小道へと連れ戻す」という「論点相違の誤謬」を犯しているのである(K.d.r.S.579f)。つまり、宇宙論的証明は「隠された存在論的証明にすぎない」というわけである(K.d.r.S.595)。

次に、神の自然神学的証明は世界の内に見出される特殊な性質、すなわちそこにおける秩序や合目的性などから出発して神の存在へと達しようとするものである。確かに、世界の内には秩序や合目的性などが存在する。しかし、それらの事実は自然の作用のみによっては説明されえない。だとすれば、世界の根底にそれらを創造した神が存在しているのでなければならない。

この自然神学的証明は古くから行なわれてきたものであり、常識にも適合している。しかし、カントによれば、それは「人間の技術との類比」にもとづいて、世界における秩序や合目的性などを創造した神を推論するものだが、だがそれによっては「自らの加工する素材の適不適によって大いに制限される世界建築師」には達するとしても、質料をも創造する「世界創造者」に達することはできない(K.d.r.S.593)。そこで、そうした世界建築師が同時に世界創造者、すなわちもっとも実在的な存在者、神でありうるためには、その証明は世界において何かが存在するとすれば、その究極的な原因として絶対的、必然的なものが存在しなければならないとした神の宇宙論的証明に依拠しなければならないことになる。だがカントによれば、こうして神の自然神学的証明はその企てにおいて行き詰まって「困惑の余りにわかに宇宙論的証明へと飛躍した」のだが、すでに触れたように、後者は「隠された存在論的証明にすぎない」のである(K.d.r.S.595)。したがって、神の自然神学的証明の根底には宇宙論的証明が存し、そしてこの証明の根底には存在論的証明が存する。そのために、神の存在証明が可能であるとすれば、「純粋な理性概念のみからなされる存在論的証明が唯一可能なものである」ことになろう(K.d.r.S.596)。しかし、他の証明の根底をなすその証明もまた挫折せざるをえないのである。

神の存在論的証明はアンセルムス以来の神学的、哲学的な伝統を有するわけだが、それは基本的に次のような手順で行なわれる。もっとも実在的な存在者であること、それが神の概念である。この神の概念の内には、そのことを否定すれば矛盾に陥らざるをえないのだから、神が現実に存在するということもまた含まれている。したがって神は存在する。ヘーゲルは『エンチュクロペディー』の「予備概念」において、この神の存在論的証明をそれなりに評価して次のように述べている。すなわち、「その現存在がその概念と異なっているということ」が、すべて有限なものの本質である。しかし、神は明らかに「「実存するものとしてのみ考えらるれもの」でなければならず、神においては概念が存在を含んでいる。概念と存在とのこうした統一こそが、神の概念をなすのである」(E.L.§51.S.136)。

しかし、カントはこうした神の存在論的証明を次のように批判する。なるほど神は純粋理性の理想ではあるが、それはやはり理念であって、その客観的な実在性を求めたとしても到達されえないものである。つまり、もっとも実在的な存在者であるという神の概念からその存在を導き出すことは不可能である。たとえば、百ターレルというものを考えてみると、現実の百ターレルも可能な百ターレルも、概念としては同じものである。しかし、私の財産状態においては、両者はまったく異なったものである。すなわち、その状態においては、「現実の百ターレルの方が百ターレルという単なる概念(すなわちその可能性)よりも多くを含んでいる」。どこに相違が存するかといえば、現実の対象は私の概念に「総合的に付け加わるもの」であるからである(K.d.r.S.572)。

事情は、神の存在論的証明の場合も同様である。神という概念に関しても、「その概念に現存を付与するためには、その外へ出なければならない」(K.d.r.S.574)。しかし、神という純粋理性の対象に関しては、それを認識する手段が欠如している。つまり、神の存在論的証明においては、「その対象の認識がアポステリオリにも可能であるということが欠けている」。だが、そこにこそ「ここで当面している困難の原因」が存しているのである(K.d.r.S.573)。周知のごとく、カントの認識論においては、人間の認識は感性と悟性が協同することで生じるものであった。対象は感性によって与えられ、悟性によって思惟されるわけだが、その際、「内容なき思想は空虚である」とされるように(K.d.r.S.95)、感性をとおして認識の素材が与えられることが、認識の成立にとって不可欠の条件をなしている。そうしたカントの認識論の枠組からすれば、神という純粋理性の対象を認識することなどそもそも不可能なのだといえよう。ともかく、カントによれば、こうして神の存在論的証明もまた失敗に帰すことになる。そのことは、結局それに依拠することになった宇宙論的証明と自然神学的証明もまた不可能であることを意味する。

しかしカントは、「その客観的な実在性はなるほど思弁的な方法によっては証明されえないが、しかしまた反駁されることもできない概念であることにかわりはない」とされるように(K.d.r.S.604)、神の存在を否定しているわけではない。従来の形而上学におけるように、それが理論的に認識されうることは否定されるものの、もっとも実在的な存在者であるという神の概念は、「単なる理想」ではあっても、「人間の全認識を完成させてそれに王冠を与える概念」という位置価を有するのである(K.d.r.S.604)。つまり、それは統一を志向する認識に対して「統制的な理念」をなすのである。そしてカントが、実践の領域では、自由、霊魂の不死とともに、神の存在を人間の道徳性が成立するための不可欠の条件として要請したことは周知のとおりである。

カントによる神の存在証明に対する批判をみたが、彼も指摘しているように、それが存在論的証明の可否の問題に収斂することは確かであろう。ところで、ヘーゲルがそれなりに神の存在論的証明を評価していることはすでにみたとおりである。『宗教哲学講義』では、カントから出発した近代の見解、すなわち「概念を我々がもつ実在性、つまり具体的な人間において測る」見解に対して、神に関する形而上学的な見解は、その対象を「思想として受け取る限りにおいていっそう優れており、さらにまた、それが不完全なものに固執しない限りにおいてもいっそう優れている」と評価している(V.R.ⅡS.212f)。そこで、まずヘーゲルがいかにカントの神の存在論的証明に対する把握を批判しているかをみることにしたい。

『エンチュクロペディー』の「予備概念」では、その批判は次のようになされている。カントによる神の存在論的証明に対する批判がかくも受け入れられた理由の一つは、それが神の概念と存在との区別を明らかにするために百ターレルの例を用いたことによるが、なるほど常識的な観点からすれば、表象や単なる概念が存在とは異なるということは当然なことであろう。しかし、まったく抽象的な概念ですら、その内に存在を含んでいることは明らかではなかろうか。「というのも概念は、その他いかに規定されるにせよ、媒介の止揚によって生じるところの、したがってそれ自身自分自身への直接的な関係であるからである。ところで、存在とはこうした自己関係にほかならない」(E.L.§51.S.136)。だとすれば、有限なものではなく、神というまったく別種のものが問題となっている場合には-すでに引用したが-次のようにいわれなければならない。すなわち、「神においては概念が存在を含んでいる。概念と存在のこうした統一こそが、神の概念をなすのである」(E.L.§51.S.136)。

先にみたような感性をとおして与えられたものにのみ存在の資格が与えられるというカントの認識論的な枠組、つまり、「対象が実際に存在していることが認識されるのは、この対象が思想の外にそれ自身において定立されるというまさにその点に存する」というその枠組は(K.d.r.S.602)、存在というものを捉えるためには狭すぎるといわざるをえないであろう。それに対してヘーゲルは、存在を媒介が止揚されたところの直接性として、したがってまた同一性として捉えているのである。もちろん、ヘーゲルにおいても、神という概念は存在というもっとも貧しい規定、もっとも抽象的な規定にとどまるものではない。

『宗教哲学講義』では、神の存在論的証明はさらに次のように捉えられている。なるほど、神の概念が存在を含むということは正しい。だが、その証明においてはむしろ「概念と〔現存在(Dasein、Existenz)を含む〕実在性との統一」が前提されており、それが「理性に対して満足を与えないのはこのためである。というのも、問題となっているのはまさにこの前提そのものであるからである」(V.L.Ⅱ.S.211)。しかしまた、概念と存在を区別したカントの立場が正しいというわけでもない。「概念と存在の差異をカントは証明していない」(V.R.Ⅱ.S.210)。彼においては、それは通俗的な仕方で想定されているにすぎない。概念と存在は統一されているだけでなく、また区別され、さらには対立している。「この対立は止揚されなければならない。そして両規定の統一は、それは対立の否定からの結果であるという仕方で示されるべきである」(V.R.Ⅱ.S.210)。ヘーゲルはこうした神の概念と存在との関係を、さらにその概念が自らを客観化し、実在化する運動として捉えている。「しかし、概念が自らを自己において規定し、自らを客観化し、自分自身を実在化するということは、一つのさらに進んだ洞察である」。それは「概念の本性から生じたもの」である(V.R.Ⅱ.S.211)。

すでにみたように、ヘーゲルにおいては、存在とは媒介が止揚されたところの直接性として同一性を意味している。だが彼は、もっとも実在的な存在者である神は、さらに自らを展開することをとおして自らを実現し、かくして自分自身の内へと還帰する運動性を有するものとして捉えているのだといえよう。なるほど、カントの存在把握が狭すぎることは確かであろう。しかし、神の存在論的証明においては概念と実在性の統一が前提されていたとすれば、ヘーゲルにおけるように、その概念は存在との区別を含んだ統一であるだけでなく、さらには自らを客観化し、実在化する運動性を有するものだとすることも、やはり一つの前提ではなかろうか。だとすれば、それによって-ヘーゲルは「絶対者は感覚に対してではなく、精神と思想に対してのみ存在する」のだとさらに反論するであろうが(E.L.21.S.78)-神の存在論的証明が従来よりも擁護されているということはできないであろう。

ところで、ヘーゲル自身が哲学は絶対者、神を前提とすることを認めている。イエナ期初期の『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(1801)において、ヘーゲルは「分裂が哲学の要求の源泉である」とした後(27)、「哲学の前提」に関して次のように述べている。哲学には「二つの前提」が存在するが、一つは「絶対者そのもの」であり、もう一つは「意識が総体性から外に出ていること」、すなわち意識が分裂していることである(28)。そして、「何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私の内にあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能である」ということから出発したデカルトにおける神の存在証明を想起させる仕方で(29)、「求められる目標」としての絶対者に関して、さらに次のように述べている。「絶対者はすでに現存している。さもなければ、どうして求められることができようか」。意識が陥っている分裂は止揚されなければならないが、そのことは「制限のない事態〔絶対者〕が前提されていることに条件づけられているのである」(30)。こうしてヘーゲルによれば、「絶対者が意識に対して〔再〕構成されるべきであること、それが哲学の課題である」(31)。

なるほど、分裂に陥った人間や社会などを批判するためには何らかの基準が必要であり、そして究極的には-ヘーゲルにおけるように-絶対的なものが基準として求められることになろう。しかし、哲学の前提とされた絶対者を神の存在論的証明の問題と関連づけると、その証明を擁護しようとしたヘーゲルも、いかに概念と存在の統一としての神が自己媒介、自己実現の運動を含むことが強調されるとしても、結局絶対者としての神を前提としているといわざるをえないであろう。「絶対者はすでに現存している。さもなければ、どうして求められることができようか」とされる所以である(32)。

なるほど、ヘーゲルの哲学もそれなりに宗教に対して固有性を保持している。『宗教哲学講義』では、哲学と宗教の関係に関して次のように述べられている。哲学は宗教の上位に立つということで批判されたが、それは誤りである。ただ哲学は、宗教と同じ内容を「思惟の形式において提示する」のであって、したがって宗教の「信仰という形式の上位に立つだけであり、内容は同一のものである」(V.R.Ⅱ.S.341)。つまり、宗教は真なるものを感情や表象の形式において捉えようとするのに対して、哲学はそれを概念的に把握しようとするわけである。しかしまた、宗教と哲学は一致するのだから、「哲学は実際神事(Gottesdienst)であり、宗教である」ともされるのである(V.R.Ⅰ.S.28)。

こうしてヘーゲルもまた神の存在を前提としており、そのためにその神の存在論的証明の擁護も成功しているということはできないであろう。もちろん、神の存在はいわば人間と世界の原理のごときものなのだから、それを証明することはできないのだともいえよう。しかし、ヘーゲルは「絶対者が意識に対して〔再〕構成されるべきであること、それが哲学の課題である」としていたが(33)、絶対者としての神を-もちろんヘーゲルとは異なった仕方ではあるが-有限な人間の側から再構成的に捉えることもできると考えられる。デカルトにおける神の人性論的証明に即していえば、完全なものの観念を前提としつつ、だがそこから神の存在の証明へと向かうのではなく、それを我々人間の側から再構成することもできるのではなかろうか。そこで最後に、そうした観点からヘーゲルの『精神現象学』を読み解いてみたい。
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