「究極の理想」阿刀田高さん(8/29東京新聞)

++++++(第72回)究極の理想 +++++++
少しく“小さな説”を離れよう。

昭和20年の秋遅く、快晴だった。私は小学5年生、新潟県の長岡に住んでいた。学校の先生から、
「もう日本は戦争をしないんだ。軍隊も持たない。憲法で決めるらしい」
と教えられた。

長岡は空襲で市街の4分の3を失い、みんなが悲惨な、とげとげしい日々を送っていた。私は戦時中こそ軍国少年で、”兵隊になって天皇陛下のために死ぬんだ”と思っていたが、次第に、
-日本は勝つのかな。こんなひどい戦争やってていいのかなー
疑いを抱いていたし、育った家庭が比較的進歩的だったから戦後は平和な日本を願っていた。先生の言葉を聞いて胸のつかえが晴れ、そのときの清らかな青空が忘れられない。”崇高な理想を深く自覚”し”諸国民の公正と信義に信頼して”まる腰になることを知ったのはもう少し後だったろう。

「わるい奴に攻められたら、どうする」

それを訴える仲間もいたし、私自身も考えた。そして結論は、
-その時は死ぬのだー
つい先日まで天皇のために死ぬ覚悟があったのだ。理想のために死んで、なにがわるかろう。青い空のイメージと共にこの思案はずっと私の中に残り続けている。まったくの話、赤紙一枚で召集され、なんのためかもはっきりせず犬死したケースは山ほど聞かされていた。高い志のため国際社会の蛮族に殺されても仕方ない。

まともな大人の考えとして、平和憲法を守ること、それも命がけなのだ。ひどい侵略があれば無力である。国際協調は死にものぐるいでやって行かねばなるまい。が、憲法9条は人類が到達すべき究極の理想なのだ。軽々には損なえない。

私は個人の倫理として“人を殺すぐらいなら自分が死ぬ”と(本当に実行できるかどうかはともかく)信じている。同意する人もいるだろう。同じことを国家の倫理として言うのは・・・政治家はむつかしかろう。しかし小説家は「まさかのときは死ぬのです」と、これは個人的な“小さな説”だろうか。
+++++++ ここまで ++++++++++
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